第6章 共鳴の深淵へ
深淵の庭園は、今なお静謐な鼓動を続けていた。
オケアノス・イマジナのメインコントロールルーム。巨大なスクリーンに映し出される青白い光のドーム、アビサル・レガシーは、二十秒ごとに呼吸するように明滅し、その脈動は船体の最深部にまで微かな振動として伝わってくる。しかし、その静けさは、鉄の意志によって引き裂かれようとしていた。
艦長の声は、耐圧隔壁を伝わってさえも冷たく響いた。
「無人機シーカー・ワン、ツー、スリー、所定位置につけ。マニピュレーター・アーム、サンプリング・ドリル、準備完了を確認。」
指令は、数時間前に地球から届いた、暗号化された極秘文書に基づくものだった。オペレーション・マーメイド・ロックによって外界から遮断された船内では、艦長の権限が絶対となっていた。文書の要旨は簡潔かつ冷酷だった——アビサル・レガシーの構造と組成を解明するため、決定的なサンプルを採取せよ。必要であれば、非破壊的手法に固執せず、構造の一部を分離・回収することも許可する。
澪はコントロールルームの隅で、拳を握りしめていた。指の関節が白くなる。彼女の目の前のモニターには、レガシーの表面を這う三機の無人探査機——シーカー・ユニットの姿が映っている。それらは巨大な結晶のドームを前に、金属製の昆虫のように無機質で、目的に忠実だった。
「艦長、もう一度お願いします。」カイルの声が、無線を通じて緊迫した調子で響く。彼は有人潜水艇アビス・ダイバーIIIに搭乗し、レガシーから数百メートル離れた位置で監視任務に就いていた。「直接接触による反応、記憶の投射現象を考慮すれば、物理的侵攻は予測不能な反応を引き起こす可能性が極めて高い。少なくとも、澪博士の仮説に基づく、非接触での『対話』の試みを優先すべきでは——」
「仮説は仮説だ、カイル博士。」艦長の声は揺るがない。「我々に与えられた時間は限られている。マーメイド・ロックが解除される保証はない。この機会を逃せば、二度とここに戻れないかもしれない。科学的知見は、具体的なサンプルなくしては前進しない。実行せよ。」
澪は唇を噛んだ。彼女の脳裏を、父・譲の記憶の残響がよぎる。結晶の中に浮かぶ、あの穏やかでありながら深い悟りに満ちた表情。彼は破壊などしなかった。彼は理解しようとした。そして、その代償として消えた。
「シーカー・ワン、ターゲットはA-7区域、表面突出結晶クラスター。ドリル接触、三、二、一——」
スクリーン上で、一機の無人機のマニピュレーター先端が、ダイヤモンドコーティングされた回転ドリルを輝かせた。その先には、レガシーの表面から珊瑚のように枝分かれした、無数の六角柱結晶が集簇する領域があった。それらは虹色の輝きを内側に宿し、まるで凍った涙のようでも、あるいは微細なプリズムの森のようでもあった。
ドリルが結晶の簇りに触れた。
その瞬間、時間が、いや、深淵そのものがため息をついたような、感覚的な遅延が生じた。
最初は視覚ではなかった。船体全体を、低く重いうなりが貫いた。それはこれまでに計測されたリズミカルなパルスとは全く異質な、地殻そのものが軋むような、苦痛に満ちた振動だった。次いで、スクリーン上のレガシーが、それまでの穏やかな青白い光を一瞬で飲み込み、閃光を放った。
白というよりも、あらゆる色が一瞬で沸騰し、融合したような、目を焼く強烈な光。コントロールルームの照明が一瞬暗転し、非常用の赤い灯りが点滅した。艦内の至る所で警報が狂ったように鳴り響く。
「何だ?! 振動計、急上昇!」
「レガシー表面温度、摂氏五度上昇! 周辺水温も上昇中!」
「シーカー・ワン、ツー、通信途絶! スリーのみかすかに信号を捕捉——」
しかし、惨劇はレガシーだけにとどまらなかった。
スクリーンの視野を広げるやいなや、澪は息を呑んだ。深淵の庭園全体が叫びだしていた。
無数に広がる半透明の結晶樹。その一つ一つが、枝先に共生する微生物群集を通じて、あるいは結晶質そのものを通じて、激しい光を放射していた。しかし、それはこれまで見てきた秩序立った、優美な脈動ではなかった。色は乱れ、青白い光は赤みを帯び、あるいは不気味な紫色に変じ、明滅の間隔は狂っていた。それは痛みに歪む神経の閃光のようであり、あるいは警告の烽火のようでもあった。光は樹から樹へと伝播し、平原全体を、文字通り燃え上がる光の海へと変えた。
そして、音があった。ソナーが捉え、聴覚化されたデータがスピーカーから流れ出る。それは、無数の生物発光生物が一斉に発する、可聴域をはるかに超えた振動の合唱だった。高周波から低周波まで、あらゆる周波数が入り乱れ、悲痛な悲鳴のように、あるいは怒りの咆哮のように、耐圧殻を伝わって乗組員の骨の髄まで響いてくる。
「周辺生態系、未曾有の活性化! 発光強度、基準値の千パーセント超過!」
「海底地盤、振動を確認! 微細な断層活動の可能性!」
澪はスクリーンに釘付けになりながら、全身の血が逆流するような確信に襲われた。彼女の仮説は間違いではなかった。むしろ、恐ろしいほどに正しかった。
アビサル・レガシーは単独の存在ではない。それは神経系の「核」であり、深淵の庭園という巨大な「身体」の心臓であり、脳である。結晶樹はその神経繊維であり、発光生物群集はシナプスだ。そして、このシステムはおそらく、マリアナ海溝という地殻の裂け目を通じて、地球のより深部、マントルに近い領域の熱や化学物質の流れ、あるいは地球磁場の微細な変動さえも感知し、何らかの形で「記憶」している。我々は、ただのサンプル採取などではなく、一個の生命体、いや、地球という惑星の生きた記憶器官そのものに、ドリルを突き立てたのだ。
「シーカー・スリー、かろうじて映像を送信しています!」
唯一通信を保っていた無人機のカメラ映像が、メインスクリーンの一角に表示された。映像は激しいノイズにまみれ、揺れている。そこに映るのは、ドリルを突き立てられた結晶クラスターの惨状だった。無数の六角柱結晶は粉々に砕け、虹色の輝きは失われ、内部から鈍い灰色の物質が漏れ出しているように見えた。その傷口の周囲からは、濃密な青白い光の「液体」——おそらくは微細な発光プランクトンか、あるいは結晶自体が放出する何か——が流れ出し、周囲の海水を濁らせていた。
そして、その傷口から、レガシー本体の脈動が、これまでとは明らかに異なる不規則なリズムで伝わってくる。鼓動が早くなり、時に途切れ、苦しげに痙攣しているようだった。
その時、船体が大きく揺れた。
「何だ?!」
「深度変化なし! 潮流急変か?!」
「違う……海底そのものが動いている!」
振動計の針は振り切れんばかりに振れた。レガシーからの共鳴音——否、悲鳴が、海底の堆積物を揺さぶり、微細な海底地滑りを引き起こしているのか。あるいは、レガシーを介した何らかのエネルギーが、地殻のごく浅い部分に影響を与えているのか。オケアノス・イマジナの巨大な船体さえも、まるで嵐の海面に浮かぶ小舟のように、ゆっくりと、しかし確実に揺れ始めた。固定されていない備品が床を滑り、壁にぶつかる音がした。
艦内放送が響く。「全員、衝撃に備えよ! 非緊急要員は指定区域に待機せよ!」
混乱と警報の音の中、澪の心は氷のように冷たく、そして一点に集中していた。彼女はコントロールルームを飛び出し、居住区画へと駆け足で向かった。頭の中では、父の言葉が、そして自らがメモリ・シェルを通じて体験したあの原始の記憶が、高速で再生されていた。
若き海での創造の戯れ。
巨きなる影(鉱物と生命の中間的存在)の散播。
光の粒による結晶ネットワークの形成。
このシステムは、破壊されるためにあるのではない。記憶するためにある。繋がるためにある。そして今、その繋がりが、痛みとして全体に伝播している。
彼女の個室に戻り、デスクの上に置かれた一つの小さな結晶片——メモリ・シェルに目をやった。それは今、微かに温かく、内部で光の脈動が、船外のレガシーと同じ不規則なリズムで明滅している。共鳴している。 この小さな欠片でさえ、本体の苦痛を感じ取っている。
「……止めなければ。」
彼女の呟きは、背後から聞こえた息遣いによって遮られた。
振り返れば、潜水服に着替えかけのカイルが、ドアの傍らに立っていた。彼の顔は蒼白だが、目には澪と同じ決意の光が宿っていた。無線機を手にしている。
「コントロールルームから追い出された。」カイルは短く言った。「艦長は『事態収束まで待機』を命じた。収束方法は、『必要ならさらなる強硬手段も含む』と。」
「馬鹿な……」澪の声は震えた。「もう傷つけたじゃないか。これ以上やれば——」
「あの『庭園』全体が、文字通り爆発するかもしれない。あるいは、何らかの……我々の想像を超えた反撃が起こる。」カイルは澪の目を真っ直ぐ見つめた。「君の仮説が正しいなら、レガシーは意思を持っている。少なくとも、刺激に対して応答するシステムだ。そして今、それは痛みと怒りに応答している。外交と同じだ、澪。一方的な攻撃の後で、対話のテーブルにつくには、まず攻撃を止め、謝罪に相当する何か——少なくとも、理解を示す意思表示が必要なんだ。」
澪はカイルの言葉の意味を理解した。彼は、彼女が考えていることと同じことを提案している。いや、すでに決断している。
「アビス・ダイバーIIIは、まだレガシー近くにいる。」カイルは続けた。「自動保持モードで停泊中だ。艦長の命令では、状況が安定次第、回収に向かうことになっている。だが、安定するまで待っていては遅い。今、動かなければ。」
「指令違反だ。」澪は言った。しかし、その声には迷いはなかった。
「オペレーション・マーメイド・ロックが発動した時点で、我々は既に通常の指揮系統からは外れている。艦長の判断が絶対だ。だが、科学的良心と、人類全体に対する責任は、それよりも重い。」カイルは小さなデータパッドを差し出した。そこには、レガシーの詳細なスキャンデータと、澪がこれまでに収集した生体反応記録が表示されていた。「君の分析と、私の地質学的データを総合すると、レガシーのエネルギー源、あるいは『核心』は、このドーム状構造の真下、海底面よりさらに深くに存在する可能性が極めて高い。おそらく、マントルに近い熱水噴出孔か、あるいは特殊な地質構造に直結している。あの脈動は、そこから湧き上がってきている。」
澪はデータを見つめ、頷いた。父の最後の通信にあった「通常ではあり得ない地磁気の乱れ」。あれは、単なる障害ではなく、レガシーの「核心」が活動した際の副産物だったのかもしれない。
「核心に近づく。直接、何らかの形で……『接触』を試みる。」澪は言った。「破壊ではなく、理解を示す。父が十年前に試みたことを、今度は私が。」
「リスクは計り知れない。」カイルは警告するように言った。「レガシーの心理的干渉は強烈だ。君は既に一度、深い記憶を掘り起こされている。さらに核心に近づけば、その影響はより強くなるかもしれない。個人の精神が耐えられない可能性もある。それに、物理的リスクも大きい。地盤は不安定だ。潜水艇が巻き込まれるかもしれない。」
「わかっている。」澪はメモリ・シェルをそっと手に取り、その温もりを掌に感じた。「でも、もう『見て見ぬふり』はできない。あれは……沈黙しているのではない。ずっと語りかけていたんだ。父はそれに耳を傾けようとした。私は、その言葉を聞きに行く。」
二人の視線が交わる。警報の音、艦内放送の声、それらすべてが遠のいていく。深淵からの悲鳴と怒りだけが、彼らを突き動かす唯一の現実だった。
沈黙を穿つ決意
準備は迅速に行われた。カイルはわずかな隙を見て、潜水艇発進用の補助ドックエリアに侵入するための一時的なアクセスコードを——彼の言う「過去のプロジェクトで使ったバックドア」を通じて——取得していた。澪は耐圧潜水服に身を包み、最低限の生命維持装置と、メモリ・シェルを収めた保護ケース、そして父の研究ノートのデジタルコピーが入ったデータパッドを携えた。
通路は人影がまばらだった。ほとんどの乗組員は指定された安全区域に待機させられていた。赤く点滅する非常灯が、金属の壁と床を不気味に照らし出す。船体の揺れは、今も続いている。微細ではあるが、絶え間ない、地の底から湧き上がるうめきのような振動だ。
ドックエリアの重厚な気密扉の前で、二人は一瞬立ち止まった。扉の向こうには、彼らの相棒であり、今や唯一の希望であるアビス・ダイバーIIIが待ち受けている。
「最後のチャンスだ、澪。」カイルは真剣な面持ちで言った。「ここをくぐれば、おそらく二度と普通の科学者として戻ることはできない。指令違反、資産の無断使用……最悪の場合、軍法会議ものだ。」
澪は深呼吸した。コントロールルームのスクリーンに映った、傷つき、怒りに燃える深淵の庭園の光景が瞼の裏に焼き付いている。そして、その上に、父・譲が結晶の中から彼女を見つめる、あの優しい幻影が重なった。
「父は、戻ってこられなかった。」澪は静かに、しかし力強く言った。「でも、彼が聞きに行った『声』を、私は聞いてみたい。それだけが、私がここにいる理由だ。」
カイルはわずかに笑みを浮かべ、アクセスパネルにコードを打ち込んだ。気密扉が重い金属音を立てて滑り、冷たい、油と海水の混じったような空気が流れ込んできた。
アビス・ダイバーIIIは、ドックのライトに照らされ、その流線形の黒い船体を幽かに輝かせていた。それはもはや単なる探査機ではなく、深淵への異端の祈りを運ぶ、小さな棺のようにも見えた。
二人は無言で乗り込んだ。ハッチが閉まり、内部の気圧が調整される音がする。コックピットは狭く、計器類の淡い光に浮かび上がる。前方の大きな観測窓の外には、ドックの壁しか見えないが、その向こうに、荒れ狂う光の深淵が待ち受けていることを、二人は知っていた。
カイルが操縦桿に手をかけ、複雑な起動シーケンスを開始する。エンジンの低い唸りが船体を満たした。
「オケアノス・イマジナ、こちらアビス・ダイバーIII。」カイルは船内通話ではなく、オープンチャンネルに近い周波数で静かに呼びかけた。「我々は、アビサル・レガシーの安定化と、事態の平和的解決を目的として、独自に潜行調査を開始する。繰り返す。これは艦長命令に基づくものではない。我々の行動の責任は、我々自身が負う。」
返答はなかった。おそらくコントロールルームでは混乱の最中、あるいは彼らの通信を意図的に無視しているのかもしれない。あるいは、マーメイド・ロックの影響で、この局所的な通信さえもが歪められているのか。
ドックの外扉が開き、漆黒の海水が眼前に広がる。オケアノス・イマジナの船腹から離れ、アビス・ダイバーIIIはゆっくりと、重い闇の中へと滑り出していった。
狂乱する庭園への帰還
母船を離れた瞬間、外の世界の狂気が、観測窓を通じて圧倒的な力で押し寄せてきた。
深淵は、もはや静寂の王国ではなかった。それは生きている苦痛そのものだった。
無数の結晶樹が、狂ったように明滅している。青、赤、紫、緑——本来は調和していたはずの光が、無秩序に混ざり合い、海底平原をネオンの墓場のように染め上げている。その光は、潜水艇の船体に反射し、コックピット内を奇怪な色彩で塗り替える。まるで、深海そのものが発作を起こしているようだった。
そして、音。ソナーが捉え、スピーカーから流れ出るそれは、もはや音楽でも合唱でもない。無数の生物が、あるいは結晶そのものが、軋み、泣き、唸る、非人間的な騒音の洪水だった。低周波は船体を震わせ、高周波は耳の奥で金属をこするような不快感を生んだ。
「信じられない……」カイルが呻くように言った。「生態系全体が、一種のパニック状態に陥っている。」
澪は窓の外に目を凝らした。光る結晶樹の間を、通常ならゆっくりと漂うはずの発光生物たちが、乱れた軌道で高速に動き回っている。まるで、巣を焼かれた蜂の群れのようだ。遠方では、堆積物が濁りを上げており、小規模な地滑りが起きている証左だった。
そして、そのすべての中心に、アビサル・レガシーがそびえ立っていた。
ドーム状の構造体は、今も激しい閃光を発していたが、その光は弱まる気配はなかった。むしろ、傷ついた結晶クラスターの周囲から、濃密な光の「出血」が続いているように見えた。レガシー全体の脈動は、依然として不規則で、時折、痙攣するように強く光る。
潜水艇は、慎重に、しかし確実に、その巨躯へと近づいていった。船体に伝わるレガシーの振動は、母船にいた時よりもはるかに直接的で、強烈だった。まるで、巨大な生き物の鼓動を、その皮膚に直接耳を当てて聞いているかのようだ。
「目標は、レガシー基部南西側の地質構造の裂け目だ。」カイルがナビゲーションデータを示しながら言った。「スキャンでは、そこから下方に向かって、通常とは異なる熱源と磁気異常が確認されている。核心への入り口かもしれない。」
しかし、その裂け目へ向かうには、レガシーのほぼ真下、最も影響の強い領域を通過しなければならない。
潜水艇がレガシーの影に入った瞬間、何かが変わった。
外の狂乱した光と音は、急に遠のいたように感じた。代わりに、コックピット内の空気が濃くなったような、重い圧迫感が二人を包んだ。計器類の光が、わずかにゆがんで見える。それは物理的な水圧ではなく、心理的な重圧だった。
澪は、掌に握ったメモリ・シェルのケースが、明らかに熱を持っているのに気づいた。中で、結晶片が激しく脈打っている。
そして、幻影が始まった。
最初はかすかだった。観測窓の外の暗闇に、ゆらめく光の筋が走る。それはレガシーの発光とは異なる、より儚く、記憶の断片のような光だ。やがて、その光の中に、形が浮かび上がってくる。
無数の、半透明の、不定形の影。それらはゆっくりと旋回し、融合し、分裂する。原始の海を漂う、生命の萌芽のようでもある。しかし、その映像には、これまで体験した創造の喜びではなく、喪失の悲しみが滲み出ていた。
「見えるか?」澪が囁くように言った。
「……うん。」カイルの声も硬い。「光の歪み……のようなものが。でも、はっきりとは。」
澪は理解した。彼女は既に一度、メモリ・シェルを通じてレガシーの記憶に触れ、父の記憶とも共鳴している。彼女の感受性は、カイルよりもはるかに研ぎ澄まされている。レガシーは今、痛みと怒りの中で、その記憶を漏れ出させている。あるいは、接近する者に対して、警告として送りつけているのかもしれない。
幻影は次第に強くなり、鮮明になっていく。
轟音と共に崩れ落ちる、巨大な結晶の塔。
光を失い、灰色に変わる無数の「樹」。
海底を覆い尽くす、厚い「灰」の層。
それは、かつてこの深淵に存在したかもしれない、もう一つの「庭園」の終焉の光景だった。地殻変動か、隕石衝突か、あるいは何か別の天変地異か。理由はわからない。だが、その破壊の記憶が、レガシーの中に、生々しい傷痕として刻まれていることが伝わってくる。
「これは……過去の記憶だ。」澪は息を詰まらせながら言った。「レガシーが経験した、あるいは『記録』した破壊。我々のドリルが、この記憶を呼び覚ましてしまった……」
痛みは、過去と現在で共鳴し、増幅している。レガシーは、今まさに加えられた新しい傷と、遠い過去の古傷を、区別できずに感じているのかもしれない。
潜水艇は、その記憶の幻影の中を、ゆっくりと進んでいく。まるで、時空の傷口を縫うように。カイルの額に汗が光る。操縦は、物理的な水流だけでなく、視界を歪める幻影との戦いでもあった。
やがて、レガシーの巨大な基部が眼前に迫る。その底部は、海底の岩盤に複雑に融合し、あるいは根を下ろしているように見えた。カイルが指し示した裂け目は、二つの巨大な結晶質の「岩塊」の間にできた、暗い亀裂だった。その奥は、ソナーでも詳細は捉えきれない深さへと続いている。
「あれだ。」カイルが言った。「熱源と磁気異常は、この亀裂の奥から強く検出されている。」
しかし、亀裂の入り口付近には、無数の細い結晶の「蔓」が、網の目のように張り巡らされていた。それらはレガシー本体から伸び、海底の岩盤に食い込んでいる。まるで、血管や神経系のように。今、それらの蔓も、不規則に明滅し、微かに震えている。
「これ以上近づけば、間違いなく物理的接触を避けられない。」カイルが警告した。「あの蔓に触れれば、さらなる反撃を招くかもしれない。」
澪はメモリ・シェルのケースを開けた。中で、結晶片は熱く、光の脈動は潜水艇の外の狂乱と完全に同期している。
「待っていても変わらない。」澪は言った。「私は……『話し』に行く。」
彼女はケースからメモリ・シェルを取り出し、裸の掌に載せた。温もりと、微かな弾力。そして、その結晶を通じて、レガシーの痛みが、より直接的に流れ込んでくるような気がした。
彼女は観測窓に近づき、レガシーの基部に向けて、メモリ・シェルを掲げた。何をすればいいのか、確かな方法はわからない。だが、父がしたように、彼女が結晶樹に対してしたように、ただ意識を向けることしかできない。
聞こえています。
あなたの痛みが。
あなたの怒りが。
私たちは……理解したかっただけです。
言葉ではない。イメージと感情を、掌の結晶を通じて、あるいはただの願いとして、深淵に向けて投げかける。
一瞬、何も起こらない。狂乱した光と音は続いている。
しかし、次の瞬間、掌のメモリ・シェルが、強く輝いた。その光は、これまでの脈動とは異なり、一定の、静かな輝きを保った。そして、その光が、観測窓の外の暗闇を、ほのかに照らし出した。
すると、驚くべきことが起こった。
亀裂の入り口に張り巡らされた結晶の蔓の一本が、ゆっくりと、まるで生き物のように動き始めた。その動きは攻撃的ではなく、探るような、あるいは触れるような動きだった。蔓の先端が、観測窓のすぐ前、澪がメモリ・シェルを掲げている位置まで、ゆっくりと伸びてきた。
「澪!」カイルが警戒して声を上げた。
「待って。」澪は動じなかった。「攻撃ではない。」
蔓の先端は、観測窓の前に止まった。その先端には、小さな、花弁のような結晶の簇りがあった。その簇りが、メモリ・シェルと同じように、静かで安定した光を放ち始めた。
そして、幻影が再び現れた。だが、今度は怒りや破壊の記憶ではなかった。
深い闇の中、一点の青い光が灯る。
その光の周りに、微細な結晶の粒が集まり、ゆっくりと成長していく。
無数の光の粒が、海底に降り注ぎ、やがて無数の「樹」となり、「庭園」となる。
それは、破壊の後の、再生の始まりの記憶だった。絶望からではなく、残されたわずかな光から、新たなネットワークが紡ぎ出されていく過程。それは、あまりにもゆっくりとした、惑星規模の忍耐の物語だった。
澪の頬を、温かいものが伝った。泣いていた。彼女はわかった。このレガシー、この庭園は、何度も破壊と再生を繰り返してきた。それは地球の記憶装置であると同時に、回復装置でもあるのかもしれない。傷つけられても、ゆっくりと、しかし確実に、自らを修復し、記憶を紡ぎ続ける。
蔓は、さらにゆっくりと動き、観測窓の表面に、ごく軽く触れた。その瞬間、微かな振動が船体を伝わり、掌のメモリ・シェルの輝きが一段と強くなった。
そして、外の狂乱が、ほんの少し、和らいだように感じた。結晶樹たちの明滅の激しさが幾分か減り、騒音のような共鳴音も、低い唸りへと変化していく。レガシー本体の閃光はまだ続いているが、その間隔が、わずかに長くなった。
「……通じた、のか?」カイルが息をのんだ。
「わからない。でも、少なくとも、こちらの意思は伝わった……気がする。」澪は掌のメモリ・シェルを見つめながら言った。
蔓はゆっくりと後退し、再び亀裂の入り口へと戻っていった。そして、網の目のように張り巡らされていた蔓の幾本かが、ゆっくりと動き、亀裂の入り口の中央に、ちょうど潜水艇が通れるほどの空間を開け始めた。
それは、明らかな招きだった。
「核心へ……の道を、開いてくれた。」澪は声を震わせた。
カイルは一瞬躊躇ったが、やがて深く頷いた。「了解だ。だが、警戒は怠るな。これは理解の始まりに過ぎないかもしれない。」
アビス・ダイバーIIIは、静かに、結晶の蔓が開いた通路へと進み始めた。潜水艇のライトが、暗い亀裂の内部を照らし出す。両側の壁は、レガシーと同じ結晶質で覆われており、内部に微かな光の脈動が流れている。まるで、巨大な生物の血管や気管の中を進んでいるかのようだった。
深淵への旅は、新たな、そしてより危険な段階へと入ろうとしていた。彼らは今、指令に背き、狂乱する記憶の器官の懐へと飛び込み、その核心に触れんとしている。その先に待つものは、さらなる理解か、それとも父と同じ運命か——。
潜水艇の影が、結晶の亀裂の闇に飲み込まれていく。後方では、蔓が再びゆっくりと閉じ、彼らの来た道を静かに塞いだ。オケアノス・イマジナからの呼びかけも、もはや届かない。ここから先は、人類の知見の及ばぬ、地球そのものが紡ぐ、悠久の記憶の深淵への、孤独な潜行だった。
外の狂乱は、まだ完全には鎮まっていない。しかし、この結晶の通路の中では、それらは遠い雷鳴のように聞こえるだけだった。代わりに、ここには、深く、重い、鼓動のような振動が満ちていた。それはレガシー本体の脈動よりもさらに遅く、さらに根源的で、まるで地球の心臓の音を、直接聴診しているかのようだった。
共鳴の深淵へ——旅は、ようやく本当の始まりを迎えた。