第2章 静かなる証言者
星野美術館は、雨上がりの朝の光を白亜の壁に柔らかく反射させていた。蔦の葉には、まだ無数の水滴が宝石のように揺れている。遠野涼子は、昨日の雨の痕跡が乾ききらない舗道を、ゆっくりと歩いた。館長との約束の時間より三十分ほど早く着いてしまった。彼女は、正門前のベンチに腰を下ろし、この建物そのものを、まずは静かに観察することにした。
明治の気風を残す洋館は、森の木々に抱かれるようにして佇み、その静けさは、まるでここだけが時間の流れから切り離された孤島であるかのようだった。上野の喧噪は、ここにはほとんど届かない。涼子は、鞄から薄い革の手帳を取り出し、鉛筆を走らせた。建物の概観、窓の数と配置、見える限りの監視カメラの位置。これらは、事件の物理的な枠組みを理解するための、最初の素描である。彼女の仕事は、常にここから始まる。物が置かれ、人が動き、時間が流れた空間そのものを、まずは一枚の絵画のように、虚心に眺めること。画家であったかつての自分が、空白のキャンバスに向き合った時のように。
約束の時間ちょうどに、涼子は正面の重厚な木製ドアを押した。内部は、外観以上の静寂に包まれていた。大理石の床、高い天井、壁に掛けられたのは、事件とは無関係な、小品の日本画ばかりだった。受付の女性に名を告げると、すぐに星野館長自らが迎えに現れた。昨日の電話の声以上に、疲労の影がその顔に深く刻まれているように見えた。
「お待ちしておりました、遠野さん。早速ですが……」
館長は、控えめな声でそう言うと、涼子を館長室へと案内した。部屋は、古びた書架と、大きなオーク材のデスクで埋められ、空気中には、紙とインクと、ほのかな防虫剤の匂いが漂っていた。館長はデスクの引き戸を開け、書類の束を取り出した。
「これが、事件当夜、美術館にいた関係者のリストと、簡単な経歴です。警備員の高木和夫、学芸員の水原志保、そして清掃員の佐藤梅。この三名が、直接の関係者となります。警察にも同じものを提出しましたが……」
館長は言葉を詰まらせ、銀縁の眼鏡の奥で、目を細めた。
「彼らの証言は、どれも一見、矛盾なく整合している。少なくとも、警察はそう判断したようです。しかし、どうにも腑に落ちない。絵は、まるで煙のように消えてしまった。そんなことがありえるでしょうか」
涼子は、黙って書類を受け取った。一枚一枚、目を通していく。写真付きの身分証明書の写し、勤務年数、当日の勤務時間帯。文字の羅列からは、何も滲み出てはこない。しかし、彼女が知りたいのは、この紙面の向こう側、生身の人間の内側で、あの夜、何が蠢いていたかである。
「まず、現場からお願いできますか」
涼子は静かに言った。
「昨日は雨で、十分には見られませんでした」
「もちろんです」
「静謐の間」へ向かう廊下は、本館の東側に延びていた。展示室をいくつか通り過ぎるが、涼子はほとんど視線をそらさなかった。それぞれの部屋の雰囲気、光の入り方、展示物の配置。それらすべてが、この美術館の「呼吸」を形作っている。そして、最奥の部屋の前で、館長は鍵を取り出した。事件後、この部屋は閉鎖され、関係者以外の立ち入りが禁じられていた。
鍵が回る音が、あまりに鋭く廊下に響いた。
ドアが開くと、昨日とは違う光が部屋を満たしていた。雨雲の去った空から、天窓を通して、柔らかな白色の光が差し込み、磨き上げられた黒檀の床に、長方形の光の帯を落としていた。その光の帯の先、正面の壁に、何もない空間が口を開けていた。
白い布張りの壁。その中央に、ほのかに色あせた、四角い痕跡。そして、その真上に、孤高にぶら下がったままの、真鍮のフック。そこには、かつて『月下の女』という重みが掛けられていた。涼子は、そっと息を吸い込んだ。空気は冷たく、清潔で、何もないことを誇示するかのようだった。しかし、彼女は感じた。ここには、何かが、確かに存在したのだ。物が奪われた後の空虚は、単なる無ではなく、強烈な存在の痕跡、負の彫刻のようなものを残す。
彼女はゆっくりと、その空白の壁の前に立った。目を閉じる。館長から聞いた描写を手がかりに、イメージを喚起しようとする。深い藍色の闇。朧げな月明かり。俯き加減の女の輪郭。草壁朔太郎がこの世に遺した最後の「問い」。それは、どのような声で、何を問いかけていたのだろう。涼子の胸の奥で、微かな疼きが走った。自分が描くことを止めたあの日、キャンバスを破り捨てたあの夜、彼女自身もまた、何かを――自分自身への問いを――失ってしまったのではないか。この絵画の喪失は、彼女の内なる喪失と、どこかで響き合っているような、不気味な既視感を覚えた。
彼女は目を開け、冷静さを取り戻す。感傷は、後でゆっくりと味わえばよい。今は観察だ。彼女は壁の痕跡の大きさを目測し、フックの高さを確認した。そして、ゆっくりと部屋の中を歩き回る。床には、乱暴な引き摺りの跡も、泥の足跡もない。窓枠にも、無理やりこじ開けた痕跡は見当たらない。すべてが整然としすぎている。
そして、彼女は昨日気になった、側面の窓ガラスに近づいた。雨は上がり、ガラスはきれいに乾いていた。しかし、よく見ると、窓の下部、ちょうど大人が立った時の口元の高さに、かすかに、ぼんやりとした円形の跡が残っている。指でそっと触れてみる。脂のようなベタつきはない。ただ、周囲のガラスよりも、ほんのわずかに、曇りガラスのような質感が指先に伝わってくる。内側から、温かい息が、均等に、そしておそらくは何度か、繰り返し吹きかけられた跡。それは、犯行の緊張の中での、無意識の息づかいか。あるいは、何かを見つめ、考え込む時の、深いため息の痕跡か。
涼子は、その跡の位置に自分の口元を近づけてみた。ぴたりと一致する。彼女はそこで、ふと、ある光景を想像した。闇に包まれたこの部屋で、一人の人物が、この窓の前に立つ。外は雨。犯行は完了し、あるいはこれから始まろうとしている。その人物は、この窓ガラスに、自分の顔の輪郭がぼんやりと映るのを見つめながら、温かい息を吹きかける。それは、自分がここにいるという確認の行為なのか、それとも、内なる揺らぎを鎮めようとする、無意識の儀式なのか。
「何か、お気づきになりましたか」
背後から、館長の心配そうな声がした。
「いえ、まだ」
涼子は、窓から離れ、壁の空白をもう一度見つめた。
「では、関係者の方々にお話を伺わせてください。まずは、警備員の高木さんからお願いできますか」
高木和夫 ― 視線の揺らぎ
高木和夫は、警備室と呼ばれる小さな控え室で待っていた。五十代半ばと思われる、がっしりとした体格の男である。濃い灰色の制服がきちんと着込まれ、短く刈り込まれた髪に白髪が目立つ。一見、無骨で実直な印象を与える。しかし、涼子が挨拶をし、名刺を差し出した時、彼の目が一瞬、わずかに泳いだ。それは、0.5秒にも満たない一瞬の出来事だったが、長年、人の細かな表情の変化を見つめてきた涼子の目には、確かに捉えられた。
館長の紹介の後、涼子は高木の正面に腰を下ろした。館長は、用事があると言って席を外した。二人きりになると、部屋の空気が、わずかに重くなるのを感じた。
「事件の夜、ご担当だったと伺っています」
涼子は、穏やかで事務的な口調で切り出した。
「お忙しいところ恐縮ですが、あの夜のことを、できるだけ詳しく、順を追ってお聞かせいただけますか」
高木は、大きくうなずいた。彼の証言は、警察への供述調書とほぼ同じ、整然としたものだった。午後五時閉館後、最終的な施錠確認と警備システムの作動チェックを済ませたこと。巡回は、一時間おきに決められたルートで行うこと。事件が発覚した「静謐の間」の前は、午後七時、九時、十一時の三回、異常なしを確認したこと。深夜一時過ぎの巡回で、ふと気になり、懐中電灯で室内を照らしたところ、壁が空白であることに気づき、直ちに館長に連絡を入れたこと。
「異常な音や気配は、一切ありませんでしたか」
涼子は、彼の話が一区切りついたところで、静かに問いを挟んだ。
「ありませんでした。いつもと変わらない、静かな夜でした。雨の音以外は」
高木は、きっぱりと言った。しかし、その言葉を発している間、彼の視線は、涼子の目をまっすぐに見つめることなく、彼女の肩口あたり、あるいは背後にあるカレンダーへと、微妙に揺らいでいた。嘘をついているというよりは、何か別のことを考えている、あるいは、話している内容そのものから、意識が少しだけ逸れているような、そんな印象を受けた。
「巡回の際、『静謐の間』のドアに触れましたか? 鍵に異常はありませんでしたか」
「触れていません。ドアは常に閉まっていますから、ガラスの小窓から室内を確認するだけです。鍵も、外から見る限り、普通に掛かっていました」
「では、あの部屋の窓はどうでしたか? 側面の窓です」
高木の眉が、かすかに動いた。
「窓……ですか。あの部屋の窓は、内側から施錠する形式です。巡回の際、特に異常は確認していません。雨で曇っていましたから、外が見えにくかったとは思いますが」
「雨で曇っていた」
涼子は、そっと繰り返した。
「高木さんは、あの夜、『静謐の間』の前を通るたびに、何かを感じましたか? 例えば、いつもとは違う空気感とか、あるいは、絵画から発せられるような……特別な気配のようなものは」
この質問に、高木は初めて、はっきりとした困惑の表情を浮かべた。彼はしばらく黙り、自分の大きな手を見つめた。
「感じた、とまでは言えません。ですが……」
彼は言葉を探すように、口をもごもごさせた。
「あの絵は、他の絵とは、ちょっと違いました。そこに掛かっていると、部屋全体が、より深く静まり返るような……そんな気がしていました。それがなくなった今、あの部屋は、ただの空っぽの部屋に感じます。以前の、重みのようなものが、消えている」
これは、興味深い証言だった。警備員である高木が、単なる「物」としてではなく、絵画が発する「気配」や「重み」を感じ取っていた。涼子は、さらに一歩踏み込んでみた。
「高木さんは、『月下の女』という絵を、以前からご存知でしたか? あるいは、草壁朔太郎という画家について」
高木は、首を横に振った。
「名前は、館長や水原さんから聞いたことがある程度です。私は絵のことはよくわかりません。ただ、あの絵だけは、何となく印象に残っていました。暗い絵なのに、どこか悲しくて……見ていると、じんわりと胸が苦しくなるような」
「胸が苦しくなる」
涼子は、小声で呟いた。彼女自身も、空白の壁の前に立った時、似たような感覚を覚えていた。絵画そのものの喪失が、見る者に与える、一種の共鳴のようなもの。
「最後に、一点だけ。高木さんが異常に気づいて、館長に連絡を入れたのは、深夜一時過ぎとおっしゃいましたが、その直前の巡回は、十一時でしたね。その二時間の間、警備室にはずっといらっしゃったのですか」
この質問に対して、高木の視線の揺らぎが、一瞬、強くなった。彼は、無意識に制服の襟元に手をやった。
「ええ、ほとんど。ただ、十一時半頃に一度、トイレに立っています。五、六分ほどでしょうか」
「その間、警備室は無人に?」
「はい。ですが、モニターはついていましたから、大きな異常があれば、警報が鳴るはずです」
涼子は、これ以上は今は追及しないことにした。彼の証言には、大きな矛盾点は見当たらない。しかし、その語り口の平板さと、微妙に定まらない視線の間に、何かが潜んでいるような気がした。それは、犯行への関与というよりは、彼自身が感じている何らかの「後ろめたさ」や「気がかり」かもしれない。あるいは、単に、事件の責任を感じている警備員としての緊張の現れなのか。
涼子は礼を言い、立ち上がった。高木は、ほっとしたような、それでいてどこか釈然としない表情で、彼女を見送った。
水原志保 ― 時間の曖昧さ
学芸員の水原志保は、涼子を、地下にある資料室へ案内した。部屋は、天井が低く、金属の書架が隙間なく立ち並び、微かな紙と埃の匂いが漂っていた。彼女は三十代後半だろうか、細身で、髪をきちんと後ろで束ね、無地のベージュのカーディガンを羽織っている。顔立ちは整っているが、どこか血の気が引いたような白さで、眼鏡の奥の瞳は、知的ではあるが、何かを深く警戒しているかのように、硬く光っていた。
「お話は、館長から伺っています」
水原の声は、低く、明晰だった。
「私でお役に立つことがあれば、何でもお聞きください。ただ、警察の方には、何度も同じことを申し上げており、それ以上に付け加える事実は、おそらくありません」
涼子は、彼女の言葉の端々に、わずかながらだが、棘のようなものを感じた。それは、協力的でありながら、同時に、自分という領域に踏み込まれることへの、鋭い拒絶でもあるように思えた。
「では、事件当日、水原さんのご行動について、お聞かせいただけますか」
水原の証言もまた、整然としていた。閉館後、彼女は「静謐の間」を含む二階の展示室の最終点検を行った。午後五時二十分頃、「静謐の間」を訪れ、『月下の女』の状態を確認した。照明の角度、室内の温湿度、絵画に異常がないか。すべて問題なかった。その後、彼女はこの資料室に戻り、来月予定されている小展示のための資料整理に取り掛かった。夕食は持参したサンドイッチをデスクで済ませ、作業を続けていたが、午後九時頃に一度、用事があって一階の事務室に降りた。その際、警備員の高木さんと廊下ですれ違ったことを覚えている。その後、再び資料室に戻り、深夜零時近くまで作業を続け、帰宅した。
「『静謐の間』を最後に確認されたのが、五時二十分頃と」
涼子は、手帳にメモを取りながら、静かに繰り返した。
「その時、絵画には何の異常もなかった。そして、次にその部屋の存在を意識されたのは、館長から連絡を受けた朝になってから」
「その通りです」
「ところで、水原さんは、草壁朔太郎の専門家だとお聞きしています。『月下の女』について、どのようにお考えですか」
この質問が、水原の硬い表情を、ほんの一瞬、緩ませた。彼女の目が、遠くを見るような、あるいは、内面の深いところに沈むような色合いに変わった。
「……草壁朔太郎の絶筆です。彼の画家人生の、最後の結晶。いや、結晶というには、あまりにも儚く、痛切な作品です」
彼女の声には、熱がこもり始めていた。
「戦後の虚無と、自身の病いの苦痛の中で、彼がたどり着いたのは、この『月下の女』の姿でした。それは、救いを求める祈りでもなければ、絶望の叫びでもない。ただ、月光の中に、静かに、しかし確かに立っている。その『立っている』という行為そのものが、彼の遺した最後の意志だったのではないかと、私は考えています」
涼子は、彼女の言葉に耳を傾けながら、ある違和感を覚えていた。それは、専門家としての情熱というには、どこか偏執に近い、強い執着の匂いがしたからだ。水原の目は、今や涼子を見つめていたが、その焦点は、涼子という人物を通り越して、彼女の背後にいる、あの失われた絵画そのものに向けられているようだった。
「では、そのような大切な作品が盗まれたことについて、水原さんはどのようにお感じですか」
水原の顔から、一気に血の気が引いた。彼女は、無意識に資料室の書架に手を伸ばし、背表紙に触れた。
「……言葉にできません。それは、単なる美術品の窃盗などではなく、もっと深い、魂の冒涜のようなものです。草壁さんが、最後の力を振り絞ってこの世に刻んだ『問い』を、誰かが、闇の中に奪い去ってしまった。許しがたい行為です」
その怒りは、本物だった。しかし、涼子は感じた。その怒りの根底には、喪失感以上のもの、例えば、所有欲に似た、歪んだ感情が潜んでいるのではないかと。水原志保は、この絵を、専門家としてではなく、もっと個人的な、独占的な思いで見つめていたのではないか。
涼子は、証言の中の、一点の曖昧さに戻った。
「先ほど、午後九時頃に一階に降りられたとおっしゃいましたね。その時、高木さんとすれ違った。その正確な時間は、覚えていらっしゃいますか」
水原は、わずかに首を傾げた。
「正確には……九時五分か十分頃だったと思います。時計をしっかり見ていたわけではありませんので」
「その時、高木さんは、どのようなご様子でしたか」
「特に変わりはありませんでした。いつものように、『お疲れ様です』と挨拶を交わしただけです」
「水原さんが一階に用事があったのは、どのようなことですか」
この質問に、水原は、かすかにたじろいだように見えた。
「……来月の展示に関する書類を、館長のデスクに提出するためです。館長はその時、既に帰宅されていましたが、デスクの上に置いておくように言われていたので」
涼子はうなずいた。矛盾はない。しかし、水原の「時間感覚の曖昧さ」が気にかかった。五時二十分、九時五分か十分、零時近く。彼女の証言は、すべて「頃」という曖昧な表現に包まれている。それは、多くの人にとって自然なことかもしれない。だが、几帳面で明晰な印象を与える水原にとって、これは少し不自然に思えた。あるいは、彼女は、時間そのものを曖昧にすることで、何かを隠しているのか。それとも、あの夜、彼女の意識が、時間の経過から離れて、別の何かに強く囚われていたのか。
「最後に、一点だけ。水原さんは、『月下の女』が盗まれる可能性について、以前から何か懸念はお持ちでしたか? 例えば、その価値が一部で過大評価されるとか、あるいは、特定の人物から強い関心を寄せられていたとか」
水原は、深く息を吸い込んだ。
「その絵の真の価値を理解する者は、限られています。一般には、草壁朔太郎の名さえ、ほとんど知られていません。ですから、金銭目的の窃盗犯が狙うとは、考えにくい。しかし……」
彼女は言葉を切った。
「しかし、真に理解しようとする者、あるいは、誤って理解したと信じ込んでいる者にとっては、この絵は、強力な磁石のようなものかもしれません。そうした者ならば、手段を選ばずに手に入れようとする可能性は、否定できません」
「誤って理解したと信じ込んでいる者」
涼子は、その言葉を心に刻んだ。
「そのような人物について、心当たりは?」
水原は、きっぱりと首を振った。
「ありません。あくまで、一般的な可能性として申し上げたまでです」
涼子は、これ以上は引き出せないと判断した。水原志保は、確かに何かを隠し持っている。それは、犯行への直接の関与というよりは、絵画に対する並々ならぬ執着、そして、その執着が生み出す、ある種の盲点のようなものかもしれない。彼女は、絵を愛するがあまり、絵の周囲に広がる現実の影を見落としているのではないか。あるいは、見ないようにしているのではないか。
資料室を後にする時、涼子はふと、水原のデスクの上に、草壁朔太郎の画集が開かれているのを見た。ページには、『月下の女』のモノクロームの図版が掲載されていた。そのページの余白には、細かい字で、びっしりとメモが書き込まれているようだった。
佐藤梅 ― 清掃が語るもの
清掃員の佐藤梅は、一階の物置兼休憩室で、モップを手入れしていた。七十歳に近い、小柄な女性である。腰は少々曲がっているが、動きは無駄がなく、皺の刻まれた顔には、穏やかで、どこか達観したような表情が浮かんでいた。涼子が訪ねてくると、彼女はにこりと笑い、お茶を入れてくれた。
「あのね、私、あの夜は、早く帰っちゃったのよ」
佐藤は、くだけた口調で話し始めた。
「閉館後の清掃は、五時半から七時までが基本なの。あの日も、いつも通り、一階の廊下とトイレを済ませて、七時過ぎには帰ったわ。だから、二階のあの部屋がどうなってたかなんて、全然知らないのよ。警察の人にも、そう言ったの」
涼子は、温かい茶碗を両手で包みながら、うなずいた。
「では、仕事をされている間、何か普段と違うこと、気になったことはありませんでしたか」
佐藤は、しばらく天井を見上げて考えた。
「そうねえ……。あ、そういえば、水原さんが、階段を慌てたように駆け下りてくるのに、ぶつかりそうになったことがあったわ。五時半か六時頃だったかしら。私がモップがけをしているところに、いきなり現れてね、びっくりした」
「水原さんが、階段を駆け下りてきた?」
涼子は、注意深く聞き返した。水原の証言では、五時二十分に「静謐の間」を確認した後、資料室に戻り、ずっと作業をしていたことになっている。
「ええ、そうなの。資料室は地下にあるから、階段を使うのよ。その時、彼女、なんだか顔色が悪くてね、『あ、すみません』ってだけ言って、すぐに事務室の方へ行っちゃった。何か急用でもあったのかしら」
これは、重要な食い違いだった。水原は、五時二十分以降、資料室にいたと証言している。しかし、佐藤の目撃証言によれば、少なくともその後の三十分から一時間の間に、彼女は階段を駆け下り、何らかの用事で一階にいたことになる。
「その時の水原さんの様子で、他に気づいたことはありますか? 何か持っていましたか?」
佐藤は首をかしげた。
「持っていたか……。そうね、何か書類のようなものを、胸に抱えていたような気がするわ。でも、よく覚えてないのよ。もう、おばあさんだからね」
「それから、警備員の高木さんについては、いかがですか? あの夜、お会いになりましたか」
「高木さん? ああ、巡回中に一度、廊下で会ったわ。七時前に、私が掃除を終えて片付けている時だったかしら。『お疲れ様、もうお帰り?』って声をかけてくれたの。優しい人よ、高木さんは」
「その時、高木さんのご様子は、いつもと変わりませんでしたか」
「別にね。でも……そう言えば、少し、そわそわしていたかも。時計を何度か見ていたように思う。あの日は雨だったから、帰りが遅くなるのが嫌だったのかしら」
そわそわ。時計を気にする。これは、高木自身が認めた「十一時半頃のトイレ」以外の時間帯での、彼の行動の不自然さを示唆しているかもしれない。
佐藤の証言は、ごく自然で、作為を感じさせない。彼女は、事件の核心からは遠い位置にいる。だからこそ、彼女の目に映った、水原と高木の「普段と少し違う」瞬間は、貴重な断片だった。それは、二人の整然とした証言の綻びを、ほんの少しだけ、ほころびさせてみせた。
涼子は、最後に尋ねた。
「佐藤さんは、『月下の女』という絵を、ご覧になったことがありますか」
佐藤の顔に、優しい、しかしどこか寂しげな微笑みが浮かんだ。
「ああ、あの青い絵ね。何度か掃除の時に、そっと覗いたことがあるよ。暗くて、よくわからない絵だな、って思っていたけど……でもね、あの絵の前でモップをかけていると、なんだか、とても静かな気持ちになるの。まるで、絵の中の女の子が、私のことを見守ってくれているような、そんな気がしてね。ふしぎな絵だったわ」
涼子は、胸が熱くなるのを覚えた。専門的な知識も、深い理解もない清掃員の老婆が、絵画から感じ取ったのは、単なる「美」ではなく、「静かな気持ち」と「見守られているような感覚」だった。それは、水原の語る「最後の意志」や、館長の言う「魂の一部」とは異なる、もっと素朴で、人間的な共鳴である。絵は、見る者それぞれに、異なる影を落とす。佐藤梅は、その絵が放つ孤独なオーラを、優しさとして受け止めていたのかもしれない。
静寂の中の対話
関係者への聞き取りを一通り終え、涼子は再び、「静謐の間」へと足を向けた。館長の許可を得て、鍵を借りていた。夕方近くになり、天窓から差し込む光は、オレンジ色に変わり始め、部屋の隅々に長い影を伸ばしていた。
彼女は、ドアを閉め、一人、その空間に佇んだ。昼間の光とはまた違う、深い静寂が、ゆっくりと彼女を包み込む。関係者の言葉が、頭の中で反響する。
高木の揺らぐ視線。彼の「胸が苦しくなる」という感覚。そして、佐藤が目撃した、彼の「そわそわ」した様子。
水原の、時間についての曖昧な証言。彼女の絵画に対する、熱くも偏った執着。そして、佐藤が目撃した、五時半から六時頃の、階段を駆け下りる彼女の姿。
佐藤の、何の衒いもない、澄んだ観察。彼女が絵から感じた「静かな気持ち」。
これらの証言は、パズルのピースのように、まだばらばらだった。しかし、涼子は感じていた。これらの矛盾や曖昧さの裏側に、人間の心が織りなす、もっと複雑な模様が隠されていることを。彼らは、必ずしも嘘をついているわけではない。ただ、それぞれが、自分自身の心のフィルターを通して、あの夜の出来事を解釈し、語っている。そのフィルターには、恐れ、執着、責任感、あるいは、無意識の願望さえもが、色を付けている。
涼子は、空白の壁の前にゆっくりと座り込んだ。背中を冷たい壁に預け、目を閉じる。すると、ふと、自分が十年前、アトリエでキャンバスを破り捨てた夜のことが、鮮やかに蘇ってきた。あの時も、周囲は深い静寂に包まれていた。完成間近だった自画像。それは、自分自身の内面の闇と光を、必死で描き出そうとした作品だった。しかし、ある瞬間、彼女は、描かれた自分の顔が、あまりにも虚構に満ちているように思えてならなくなった。絵の具の層の下に、本当の自分など、どこにもいない。そんな絶望が、突然、堰を切った。ナイフでキャンバスを引き裂く音。それが、彼女のなかで、何かが決定的に終わる音だった。
それ以来、彼女は描く代わりに、見つめることを選んだ。他人の喪失を追い、その痕跡を丹念に拾い集めることで、自分が失ったものの正体に、間接的に迫ろうとしてきた。それは、果てしなく迂遠な道のりだった。
今、この空白の壁の前で、彼女は、『月下の女』という、他人の喪失と向き合っている。草壁朔太郎が遺した「問い」。それは、彼女自身の内なる「問い」と、どこかで響き合わないだろうか。絵の中の女は、月光の中に、ただ立っていた。涼子は、あの夜、キャンバスを破った後、窓辺にただ立ち尽くした自分を思い出した。何もできず、ただ、闇を見つめるしかなかった。
この絵を盗んだ者もまた、何かを失い、あるいは、何かを得ようとして、この部屋に立ち、この空白の壁を見つめたに違いない。窓ガラスに息を吹きかけたその人物は、涼子と同じように、内なる孤独と対峙していたのかもしれない。絵画の持つ孤独なオーラが、犯人の孤独と共鳴し、ある歪んだ行為を引き起こしたのだろうか。
外は、すっかり夕暮れ時になっていた。天窓からは、もう光が消え、部屋は薄暗い藍色に染まり始めている。まるで、『月下の女』の背景の闇が、絵のないこの空間にまで浸透してきたかのようだ。
涼子は、ゆっくりと立ち上がった。膝の痛みを感じる。長い間、座り込んでいたのだ。彼女は、最後にもう一度、部屋を見回した。そして、心の中で呟いた。
(これから向き合うことになる数々の言葉――その裏に潜む三つの嘘について、私はまだ知る由もなかった)
嘘。それは、必ずしも悪意から生まれるとは限らない。自己防衛のため、他者への配慮のため、あるいは、自分自身でさえ気づいていない深層心理の歪みから、無意識に紡ぎ出されるものだ。高木の、水原の、そしておそらくはまだ会っていない誰かの言葉の裏側に、