第8章 知識を運ぶ旅路
北翼の閲覧室に差し込む朝の光は、いつもより幾分か冷たく感じられた。防衛戦から数日が経ち、図書館は静謐を取り戻していたが、空気の中には張り詰めた緊張が残っていた。書架の影が、以前よりもほんの少し濃く、長く伸びているように見えるのは、気のせいだろうか。
健は、館長室の重厚な机の前に立っていた。眼前には、羊皮紙に記された旅路の地図が広げられている。ヴァルナの谷から北東へ、険しい「古竜の背骨」山脈を越え、さらにその先にあるとされる「千年樹の森」へと至る道筋が、細いインクの線でたどられていた。
「覚悟はできているかね、健くん」
オルウェン館長の声は、いつもの穏やかさの中に、鋼のような芯を宿していた。老紳士は窓辺に立ち、外の王都の街並みを背にしていた。彼の手には、小さな革製の筒が握られていた。
「はい、館長。『森の心』を探し出し、封印の手がかりを得る。それが私の使命です」
健の声には、迷いはなかった。防衛戦で目の当たりにした「記憶の書」の破壊。あの光の粒が散り、三百年の時を超えた貴重な記憶が永遠に失われていく光景は、彼の胸に深く刻まれていた。敵は過去を消し去り、未来への道を塞ごうとしている。ならば、残された断片をつなぎ合わせ、新たな道を切り開くしかない。
「よろしい」
館長が振り返り、革筒を机の上に置いた。
「これは、アストラエウムの分館、および王国各地に散らばる『知の守り手』たちへの紹介状だ。我々の紋章が刻まれており、本物である証となる。旅の途上、助けを必要とする時、あるいは知識を求める時には、これを提示するがいい。ただし――」
館長の目が鋭く光った。
「紋章が逆らぬ者もいる。影喰いの闇は、人の心にも、組織の内部にも滲み出る可能性がある。紹介状が仇となる場合も考えねばならぬ。使いどころは、汝自身の判断に委ねる」
重みを感じながら、健は革筒を受け取った。中には、アストラエウムの紋章――開かれた書物とそれを囲む月桂樹――が鮮やかに押された羊皮紙が数枚、丁寧に巻かれていた。
「旅の装備は、ミレーヌと共に整えたわ」
ドアが開き、銀髪をポニーテールに束ねた戦士が入ってきた。左足の負傷は、健の本による治療と、図書館が所蔵する良質な軟膏によってほぼ完治していた。だが、彼女の足取りには、以前にはなかったほんのわずかな慎重さが加わっていた。闇の毒が完全に跡形もなく消えたわけではない。それは、彼女自身が最もよく知っている。
「食料、水筒、簡易な野営用具、地図、それに健さんのための――特別な荷物ね」
ミレーヌが指さした先には、頑丈なリュックサックが二つ置かれていた。一つは彼女のもの。もう一つ、やや小ぶりだが、背中に当たる部分が分厚くクッションで補強されたそれは、明らかに健用だ。中には、限られたスペースに、最も必要とされる数冊の本が収められている。
『光の聖典』写本断片(第三書頁)。『吟遊詩人カリオンの戦記詩』(「古竜の背骨」と「千年樹の森」に関する記述のある抄録版)。『辺境の薬草誌・北東部編』。そして、オルウェン館長が密かに手渡した一冊、『古の守護魔方陣・基礎編』。これらは、物理的な重さ以上に、精神的な重責を背負わせるものだった。
「我は図書館を守り、ここでさらなる調査を続ける」
館長がゆっくりと席に着いた。
「汝らの旅は、単なる物品収集の旅ではない。『光の聖典』の書頁『森の心』を探すこと。それは同時に、影喰いの闇に蝕まれつつあるこの大地の現状を汝自身の目で確かめ、アストラエウムが守る『知識』を、必要とする人々の元へと運ぶ旅でもある。司書の役割は、書架の間で静かにページをめくることだけではない。時に、知識を携え、危険を冒し、世界へと出向くことも求められる。それが『架け橋』たる所以だ」
架け橋。
その言葉が、健の胸に深く響いた。彼は元の世界から、このエルディアへと、ある意味で「架け橋」なくして渡ってきた存在だ。ならば、この世界においても、知識と無知、光と闇、救いと絶望の間に立つ架け橋となることが、彼に与えられた役割なのかもしれない。
「では、行ってまいります」
健は深々と一礼し、リュックサックを背負った。革の紐が肩に食い込む感触。本の角が背中にほんのりと温もりを伝えてくるような、そんな錯覚を覚えた。
王都を離れて
王都アストリアの巨大な城門をくぐり抜ける時、健は思わず振り返った。石畳の街路の奥、丘の上にそびえるアストラエウム図書館の白亜の塔が、朝日に輝いていた。あの静謐な書架の森、羊皮紙の匂い、ページをめくる微かな音――すべてが、突然、懐かしい遠いもののように感じられた。
「未練がましいわね、司書見習いさん」
傍らを歩くミレーヌが、少しからかうような口調で言った。彼女は軽やかな歩調で、道行く商人や農民たちに交じっていた。皮の鎧の上に旅装の外套を羽織り、腰には愛用の短剣と、館長から支給されたという銀の細工が施された投げナイフが揺れている。
「でも、気持ちは分かる。初めて辺境を離れる時、俺も同じように振り返ったものさ」
「ミレーヌさんは、どこから来たんですか?」
旅の道すがら、これまで深く尋ねたことのないことを、健はふと口にした。
「はっきりした故郷なんてないさ」
彼女は前方の埃っぽい街道を見つめながら、淡々と語り始めた。
「北東の、ヴァルナの谷よりもっと北の、山岳地帯の小さな集落で生まれた。でも、影喰いの気配が強まるってんで、村ごと南下してきたのは、十年ほど前のことだ。その途中で家族とはぐれて……それ以来、ひとりでやってきた。王都に辿り着いてからは、護衛や探索の仕事で食いつないでいたところを、館長さんに拾われたってわけ」
その言葉には、哀感というよりは、ある種の達観めいたものが込められていた。健は、自分が「転生」という形で、全ての過去を断ち切られてこの世界に来たことを思い出した。彼にもまた、語ることのできない「故郷」があった。その点では、奇妙な共感を覚えずにはいられなかった。
「……大変でしたね」
「はは、今さらだよ。それより、あんたこそ、図書館員からいきなり世界救済の旅って、ついていけてるか? 本の力は使えても、野宿の仕方も、魔物の見分け方も知らんだろう」
「それは……確かに」
健は苦笑した。知識はあっても、実践経験が圧倒的に欠けている。この旅は、彼にとって生まれて初めての、文字通りの「野外実習」でもあった。
「ミレーヌさんに、いろいろ教えてもらわないと」
「任せとけ。代わりに、あんたのその本の魔法で、俺の飯を美味しくしてくれよな。乾パンばっかじゃ、胃が荒れる」
冗談交じりの会話が、初めての旅の緊張をほぐしてくれた。
最初の目的地は、王都から東に二日ほど歩いたところにある、農業地帯の中心部にある村、「緑穀(りょくこく)の里」だった。館長からの情報では、この数ヶ月、原因不明の作物の萎凋病が広がり、村が困窮しているという。影喰いの影響の可能性が高い。
一日目の夜、道沿いの森の縁で野営した。ミレーヌが手際よく火を起こし、簡易な鍋で湯を沸かして乾燥肉と硬いパン、野草を入れたスープを作ってくれた。健は、火の番と、『辺境の薬草誌』を読みながら、周囲に生えている草の識別を試みた。
「おい、司書見習い。あのキラキラ光る苔、食べられるか?」
「ええと……『月下光苔』。微弱な魔力を帯び、食用には向かない。ただし、潰した汁には軽い鎮痛作用があると記されています。傷の手当てに使えるかもしれません」
「ほう。やっぱり本は便利だな。俺みたいに、食えるか食えないかは実際に齧ってみないと分からないよりはよっぽどスマートだ」
ミレーヌはそう言って、嬉しそうにスープを啜った。健は、本の知識がこうして実際の生活、生存に直結する場面を目の当たりにし、改めてこの世界における「本」の重みを感じた。図書館の中では抽象的な「力」や「概念」だったものが、ここでは命を繋ぐ具体的な「知恵」として機能していた。
夜風が冷たくなり、火の粉がぱちぱちとはじける。頭上には、元の世界では見たことのない、二つの月が並んで浮かんでいた。大きい方は青白く、小さい方はほんのり赤みを帯びている。
「あの月を見るたび、ここが本当に別世界なんだと実感するよ」
健が呟くと、火の向こうのミレーヌがきょとんとした顔をした。
「ん? 月が二つあるのは当たり前だろ。……まさか、あんたの故郷には月が一つしかないのか?」
「……ええ、そうですね」
うまくごまかした。転生の秘密は、館長とミレーヌ以外には話していない。
「ふーん。変なところから来たもんだな。でも、月が一つだなんて、なんか寂しい夜空だなあ」
ミレーヌの何気ない言葉に、健ははっとした。彼女にとっての「常識」は、自分にとっての「非常識」だ。この旅は、異世界の文化や常識を、肌で学ぶ機会でもあるのだ。司書として、この世界のあらゆる記録を理解するためには、まずこの大地を歩き、人々の声を聞き、空気を吸わなければならない。
そう悟った時、背中のリュックの中の本が、ほんのりと温かくなったような気がした。まるで、彼の覚悟に応えているかのように。
緑穀の里にて
二日目の午後、緑穀の里に到着した。かつては豊かな麦畑が広がっていたはずの村の周囲は、見るからに活力を失っていた。畑の作物は、根元から不自然な黒ずみを帯び、葉は萎び、色あせている。まるで、生命力そのものが地中から吸い取られたかのようだ。空気は重く、澱んでいた。
村の入り口で、村長らしき初老の男と数人の農民に出迎えられた。彼らの顔には、疲労と諦めに似た表情が刻まれていた。
「王都からの使者様ですか……ご苦労様です」
村長の声には力がなかった。
「でも、もう、どうにもならんのです。騎士団の見回りもあったが、魔物の気配はない、ただの病気だと言われて……祈祷師を呼んでも、効果は一時的。このままでは、冬を越せるだけの蓄えが……」
健は村長の言葉を聞きながら、畑の縁に近づいた。土に手を触れようとしゃがみこむ。冷たい。いや、冷たいというよりは、「何もない」という感触だ。通常の土が持つ微かな湿り気や、微生物の営みを感じさせる生気が、ここには欠けていた。
「影喰いの闇に土地そのものが蝕まれている」
ミレーヌが低く言った。彼女は辺境で同様の光景を何度も目にしてきた。
「目に見える眷属はいない。でも、土地の『影』が濃くなっている。ここは、闇の渦動の、ごく周縁部に巻き込まれているんだ」
「何かできることはありませんか?」
健が村長に尋ねた。
村長は首を振り、ため息をついた。
「できることなら……かつて、村の祠に伝わる『大地の恵みを讃える詩篇』を、豊作の折に唱える習わしがあったのですが、ここ数十年で廃れてしまい、写しも失われて……古老も去年他界してしまいまして」
詩篇。
その言葉に、健の頭の中で、ある本のページがめくれた。『吟遊詩人カリオンの戦記詩』。そこには、戦いの詩だけでなく、各地の風土を讃え、自然の精霊に呼びかける古い歌謡も収録されていた。
「その詩篇の内容を、ご存知の方はいらっしゃいますか? 断片でも、言葉の端々でも」
村長は考え込み、ようやくうなずいた。
「わしの父が、子どもの頃に聞いた……というかたまりを、少しだけ覚えておりまするが……」
老人がゆっくりと、途切れ途切れに口ずさんだ。
「『……緑の……根を張れ、深き闇より……銀の雨に……潤え……大地の母の……息吹を……』……こんなものでしたかな。意味も分からぬ、でたらめかもしれませんが」
それで十分だった。健は背中のリュックから『吟遊詩人カリオンの戦記詩』の抄録を取り出し、急いでページをめくった。指先が、自然とあるページに導かれる。北東部の農業地帯に伝わる「大地の豊穣の祈り」と題された一節だ。そこには、村長の記憶と符合する言葉が、より完全な形で記されていた。
『緑の子らよ、根を張れ 深き闇より命を汲め 銀の雨は天の恵み 大地の母の息吹に潤え 光の巡り、実りを約束せん』
「これです!」
健は声を上げた。
「村長さん、この詩篇を、村の方々と一緒に唱えていただけませんか? 今からでも」
村人たちは怪訝な顔をした。古老の呪文のようなものに、今さら何の意味が? という空気が流れた。
しかしミレーヌが一歩前に出た。
「やれることは、試してみる価値はあるだろ。彼はアストラエウムの司書だ。本に書かれた『言葉』に力を宿すことができる」
半信半疑ながら、村人たちは集まった。健は詩篇の一節を大きな声で読み上げ、村人たちに繰り返させた。最初はぎこちなかった唱和も、回数を重ねるにつれ、次第に揃っていった。
健は目を閉じた。単に言葉を読むのではなく、その言葉が内包する「概念」に意識を集中する。豊穣。成長。大地の恵み。闇からの命の汲み上げ。詩篇の一語一語が、単なる文字の羅列ではなく、この土地が本来持つべき記憶、生命力の脈動を呼び覚ます「鍵」であることを思い描く。
背中の『吟遊詩人カリオンの戦記詩』が温かくなった。そして、彼の声を通じて、あるいは村人たちの合唱を通じて、微かな振動が地面に伝わっていくような感覚があった。
何も起こらない――と、誰かが呟きかけたその時だった。
健の足元の、枯れかかった麦の根元から、ほんのりとした緑の輝きが、ごく微弱に、しかし確かに灯った。それは一瞬で消えたが、次に、別の株からも、また別の場所からも、同じように小さな緑の光が点滅した。
「おお……!」
村長が息をのんだ。光が点滅した場所の作物は、完全に蘇るわけではないが、萎びた葉の先端に、かすかに張りが戻っているように見えた。黒ずんだ根元の色も、ほんの少し薄らいだ。
劇的な変化ではなかった。しかし、「何も起こらなかった」状態から、「確かに何かが起こった」状態への、明確な一歩だった。
「土地の蝕みが完全に浄化されたわけじゃない」
健は息を整えながら説明した。精神を集中させた消耗が、じわりと額に汗をにじませる。
「でも、この詩篇が、土地に残されたわずかな『記憶』――豊かだった頃の記憶を呼び覚まし、闇の進行を一時的に遅らせ、ほんの少しだけ生命力を呼び戻す……きっかけにはなったと思います。定期的に唱えることで、完全な枯死を防ぎ、時間を稼げるかもしれません」
村人たちの目に、久しぶりに希望の色が浮かんだ。彼らは健の周りに集まり、感謝の言葉を次々と述べた。村長は、涙ながらに健の手を握りしめた。
「使者様……いえ、司書様。あなたは、ただの調査に来られたのではありませんね。あなたは、私たちに『忘れていた知恵』を運んでくださった」
知識を運ぶ。
館長の言葉が、ここで現実のものとなった。アストラエウムの書架に眠っていた一節が、ここに運ばれ、必要とする人々の手に渡り、実際に土地を癒すきっかけとなった。健は、本を閉じながら、深い充足感を覚えた。これが、司書としての、もう一つの戦い方なのだ。
その夜、村で歓待を受けた後、健とミレーヌは村の小さな宿屋に泊まることになった。明日はさらに東へ、山岳地帯に向かう。
「あんたのやり方、なかなか見事だったよ」
部屋で装備を点検しながら、ミレーヌが言った。
「剣も魔法も使わずに、人々を助ける。図書館の奴らが、なんであんたを気に入ってるか、少し分かった気がする」
「ありがとうございます。でも、これだけでは根本解決にはならない。影喰いの源を断たなければ、また同じことが繰り返される」
「そうだな。だからこそ、『森の心』を見つけなきゃならない」
ミレーヌが窓の外を見やった。闇の中、遠くに連なる山脈のシルエットが、巨大な竜の背骨のようにうねっていた。
「あの山を越えた先に、答えがあるのかもしれない。でも、館長さんが言ってた通り、敵の妨害も覚悟しなきゃな。図書館を襲った連中が、俺たちが動いていることを知らないはずがない」
彼女の言葉通り、旅の道中、不気味な気配を感じることは少なくなかった。夜道で後をつけられているような感覚。キャンプの周囲で、草木も揺れないのに動物の気配が消える瞬間。それらは、目に見える攻撃ではないが、確実に彼らの旅を見張る「目」の存在を感じさせた。
古竜の背骨を越えて
緑穀の里を発って三日目、彼らは「古竜の背骨」山脈の麓に到達した。険しい岩肌が露出した山々は、その名の通り、太古に横たわった巨竜の亡骸のように見えた。道は細く、所々で崩落している。健は、図書館での運動不足を痛感しながら、息を切らして登った。ミレーヌは軽やかに岩をよじ登り、時折、遅れる健に手を差し伸べてくれた。
「大丈夫か? 本の魔法で、足腰強くする術とかないのか?」
「残念ながら……そのような実用的な……記述は……見たことが……」
健は喘ぎながら答えた。背中のリュックが、ますます重く感じられる。
四日目の正午過ぎ、山中腹の洞窟で休憩している時、初めての明確な襲撃が起こった。
風の音が、突然消えた。洞窟の外の明るい光景が、一瞬で薄暗く歪んだ。そして、地面の影が、みるみるうちに盛り上がり、不定形の黒い塊となって這い出してきた。影喰いの眷属――前回図書館で戦ったものより小ぶりだが、数は多い。五体、いや、六体。
「来たな!」
ミレーヌは即座に短剣を抜き、健の前に立ちはだかった。
「狭い洞窟内は不利だ! 外に出る!」
彼女の指示に従い、健は洞窟の奥から出口へと駆け出した。眷属たちは滑るように追ってくる。太陽の下ではあるが、山の深い谷間は日陰が多く、闇のものたちにとっては好都合の地形だ。
「健! あんたの出番だ! 奴らを薙ぎ払え!」
ミレーヌが二体の眷属を短剣と銀の投げナイフで巧みに翻弄し、足止めする。しかし、残る四体が健に向かって直進してくる。
焦りが頭をよぎった。前回は図書館の中、『光の聖典』の写本断片と深く共鳴した緊迫した状況下での発動だった。今、落ち着いて力を引き出せるだろうか?
背中のリュックが熱い。中にある『光の聖典』写本断片が、闇の接近に反応している。健はリュックを背負ったまま、走りながら意識を内に向ける。写本断片のページをめくるイメージ。あの「浄化」の光を呼び起こす言葉――
「光よ……我が前にあらん! 闇を祓え!」
声に出して叫んだ。しかし、前回のような強烈な閃光は現れない。代わりに、彼の周囲の空気が微かに震え、ほんのりとした温もりが広がっただけだ。眷属たちの動きが、一瞬、鈍ったように見えたが、止めるには至らない。
集中が足りない。あるいは、状況が違う。
図書館では、守るべき場所と仲間が眼前にあった。今は、自分自身の生存が最優先だ。その「守りたい」という感情の質が、発動する力の性質を変えているのかもしれない。
一匹の眷属が跳躍し、黒い触手のようなものを健の足元に伸ばしてきた。間一髪でよけたが、岩に躓き、よろめく。
「違う……攻撃だけが力じゃない!」
ミレーヌの声が飛んだ。
「あんたが村でやったことだ! 思い出せ!」
村でやったこと。
土地の記憶を呼び覚ます。闇の進行を遅らせる。遅らせる。
健は転がりながらリュックから『光の聖典』写本断片を取り出すわけにはいかない。代わりに、頭の中で、写本の欠落したページを想像する。そこに記されていたはずの、「停滞」「遅延」「闇の足枷」といった概念を。
そして、地面に手をついた。冷たい岩肌。その岩が、何千年もこの場所にあり続けた「記憶」。風化に抗い、時を刻み続けた「持続」の力。
「この大地の……悠久の時よ……流れを緩めよ!」
彼の叫びは、詩篇でも祈りでもない、即興の呼びかけだった。しかし、その言葉と共に、彼の手のひらから、岩の表面へと、微かな銀色の光の輪が広がった。輪はすぐに消えたが、光が通った地面の上を這う眷属たちの動きが、明らかに重くなった。まるで、深い泥濘にはまったかのように。
「今だ!」
ミレーヌの投げナイフが、銀の閃光を描いて、動きの鈍った眷属たちの「核」らしき部分を貫いた。二体が黒い煙を上げて崩れ去る。ミレーヌ自身も、短剣で足止めしていた一体を仕留め、残り一体を崖下へと蹴り落とした。
戦闘は、ほんの数分で終結した。健は岩壁にもたれ、激しい動悸と頭痛に襲われた。精神力を絞り出した消耗は、肉体の疲労とは次元が違う。
「……やったな」
ミレーヌが近づき、肩を叩いた。彼女も息が乱れている。
「あれは……光の攻撃じゃなかったが、確かに役に立った。あんた、応用が利くじゃないか」
「はは……どうやら……『光の聖典』の力は……状況や……私の意識の向け方で……形を変えるみたいです」
健は喘ぎながら答えた。
「守りたい時は『守護』や『浄化』。進みを阻みたい時は……『停滞』や『遅延』……。本に書かれた『概念』の……引き出し方次第……なんですね」
「ふむ。ますます図書館の宝物って感じがするな、あんたは」
ミレーヌはそう言って、水筒を渡してくれた。
「でも、無理はするな。次に本格的に襲われた時、力が出せなかったら終わりだ。山を越えるまでは、俺がなんとかする。あんたは、次の戦いのために温存しとけ」
健はその言葉に甘えることにした。彼女の野生の勘と戦闘技術は、山道での心強い盾となった。そして彼は、戦闘だけでなく、この旅そのものが、彼の能力を鍛え、広げていることを実感した。図書館の中では得られない、臨機応変な「概念」の引き出し方。それは、固定された術式ではなく、生きている知恵そのものだった。
千年樹の森と隠れ里
古竜の背骨を越え、さらに東へと二日進んだところに、彼らの目的地である「千年樹の森」は広がっていた。文字通り、樹齢数百年を超える巨木が林立する深い森だ。昼間でも薄暗く、湿った空気には、苔と腐葉土の香りが濃厚に漂っていた。
『吟遊詩人カリオンの戦記詩』によれば、「森の心」はこの森の「最も古き樹の、空洞に眠る」と曖昧に記されていた。問題は、「最も古き樹」がどれか、特定する手がかりがほとんどないことだった。
森に入って半日ほど歩いた時、ミレーヌが突然立ち止まり、耳を澄ませた。
「人の気配がする。しかも、複数。隠れている」
彼女の勘は鋭かった。次の瞬間、周囲の灌木の影から、弓を構えた数人の人影が現れた。彼らは、木の皮や苔でカモフラージュした簡素な服装をし、目つきは警戒に満ちていた。先住民、あるいは森の守り手だろう。
「立ち止まれ。汝ら、何者だ? この聖なる森に、何の用で踏み込んだ?」
リーダー格の、たくましい体格の男が低い声で問い詰めた。
健は慌てず、オルウェン館長から託された革筒を取り出し、紹介状を一枚示した。
「私たちは、王立大図書館アストラエウムからの者です。『森の心』を探しに参りました」
「アストラエウム……?」
男の目が紹介状の紋章に釘付けになり、表情がわずかに緩んだ。
「……証明を見せよ。紋章だけでは足りぬ」
どうすれば? と健が思ったその時、背中のリュックの中の『光の聖典』写本断片が、再び温かくなった。そして、彼の口が自然に動いた。
「『光は、闇を分かつ前に、自らの内に七つの輝きを宿せり』」
それは、写本断片の冒頭に記された一節だった。男たちの間にざわめきが走った。
「……彼らを知っている者からの伝言か?」
男が厳しい目を健に向けた。
「それならば、我々の長老に会うがいい。だが、武器はここで預かる」
ミレーヌは一瞬躊躇ったが、健がうなずくと、短剣と投げナイフを地面に置いた。健も、本以外の装備を外した。
彼らに導かれて森の奥深くへと進むと、そこには、巨木の根本を巧みに利用して築かれた小さな集落があった。「隠れ里」と呼ばれるにふさわしい、外部からはほとんど発見できない隠蔽された場所だ。住人は百人ほどか。人々は好奇と警戒の混じった目で二人を見つめた。
集落の中心にある、最も大きな木の根元に穿たれた洞穴のような場所が、長老の住居兼集会場だった。中には、木の根が自然の椅子や机となっており、中央の炉では火が静かに燃えていた。炉の傍らに座る、髪もひげも真っ白な、しかし目だけは青年のように澄んだ老人が、長老だった。
「アストラエウムの使者か……久しいな。オルウェンは元気か?」
長老の声は、木の葉の擦れるような、乾いたしかし力強い響きを持っていた。
「館長は、図書館を守りながら、私たちを送り出しました」
健は丁寧に頭を下げた。
「ふむ……ならば、用件は聞いている。『森の心』を求めて来たと」
長老の目が細くなった。
「だが、それがあまりに安易に手に入るものだと思うな。『森の心』は、単なる物品ではない。この森の、いや、この地域全体の生命と記憶が凝縮された『概念』の結晶だ。それを具現化した書頁は、森が最も深く眠る時、最も古き樹の心臓部にのみ現れる」
「最も古き樹とは?」
「この森には、樹齢二千年を超える『祖樹(おやぎ)』が三本ある。どれが真の『最も古き』かは、樹自身が決める。そして、その心臓部に至るには、森の試練を乗り越えねばならぬ。森は、その意志を理解し、尊重する者にのみ、その核心を明かす」
それは、物理的な探索以上の、精神的な旅を意味していた。
「試練とは、どのようなものですか?」
「それは、汝自身が知ることになる」
長老はゆっくりと立ち上がり、炉の火をかき混ぜた。
「我々『守り手』は、試練の案内はするが、先には進まぬ。それは外の者に与えられた試みだ。ただし、一つ忠告しておく。影喰いの闇は、この森の縁にも及んでいる。試練の途中、闇の誘惑や、闇が形作る偽りの道が現れるかもしれぬ。本物の道を見極めるのは、汝自身の『心』と、汝が持つ『光』だけだ」
その夜、二人は隠れ里に泊めてもらうことになった。長老は、翌朝から試練への道を示すと言った。
宿となる小屋で、ミレーヌが低い声で言った。
「いよいよって感じだな。でも、あの長老の言う通り、これは単なる冒険じゃないみたいだ。あんたの本の力が、試されるってことか」
「ええ。でも、それだけではない気がします」
健は窓の外の、闇に包まれた巨木のシルエットを見つめながら言った。
「館長が言っていた『架け橋』になること。それは、アストラエウムと外の世界をつなぐだけじゃない。もしかしたら……人と自然、現在と過去、光と闇の間の『架け橋』