第9章 脱出の行方
広間の冷たさは、もはや皮膚を通り越して骨髄にまで染み渡っていた。拓也の遺体は、誰の手によってか、埃まみれのビロードのカーテンで覆われていた。その下からは、彼の身体の輪郭が、わずかに盛り上がった、何とも言えず寂しい丘のように見える。彼の死は、単なる物理的な不在ではなかった。それは、この館の空気そのものを変質させた。以前は、五人の生の気配が、たとえ不安と疑いに満ちていても、空間をある種の生暖かさで満たしていた。今、そのうちの一つが消え去ったことで、残された空気は、より一層希薄になり、より一層重く、そしてより一層透明な毒気を帯びているように感じられた。四人――健太、美咲、涼子、哲也――は、カーテンに覆われた丘の周りに、互いに触れ合わない距離を置いて、それぞれに座っていた。涼子は、少し離れた階段の影に身を寄せ、膝を抱えていた。彼女の耳には、今も囁きが絶え間なく流れ込んでいるのだろう。彼女の目は、遠くの、しかしこの館の壁の内側にしか存在しない何かを見つめていた。
時間というものが、ここには存在しない。窓の隙間から差し込む光の具合で、夜が明け、また暮れるのだと、理性は理解しようとする。しかし、皮膚が感じるのは、永遠に続く黄昏か、あるいは真夜中直前の、一切の活動を停止させるような沈黙の時間だけだった。拓也が息を引き取ってから、いったいどれだけの時間が経ったのか。時計の針は、すべて意味を失っていた。ただ、飢えと渇きが、鈍いナイフのように内臓を削り、それが唯一の、生きた時間の測り石となっていた。
「……動かなきゃ」
声が発せられた。それは、乾いた砂礫を擦り合わせるような音だった。発したのは哲也だった。彼は、拓也の遺体を覆うカーテンの端を、ぼんやりと見つめながら、そう呟いた。命令でも決意でもない。ただ、そこに転がっている事実を、音に変えただけのように聞こえた。
「動いて、どうするの?」
美咲の声には、かつての鋭い合理主義の刃はなかった。それは疲れ果て、擦り切れ、ただ疑問を投げかけるという形式を保っているだけの空虚な響きだった。彼女は自分の手のひらを見つめていた。その手は、拓也を広間へ運んだときの、彼の腕の重さをまだ覚えているようだった。
「このままここにいれば、次は誰かが死ぬ」哲也は言った。彼の目は、美咲から健太へ、そして遠くの涼子へとゆっくりと移った。「順番に、だ。拓也が最初だった。次が誰かは……わからない。あるいは、全員かもしれない」
「館の仕組みがわかったとでも?」美咲は嘲るように言ったが、その嘲りは自分自身に向けられているようだった。「あの……『内側の客』だか何だか。それが私たちの中にいて、こいつが」彼女は顎で、周りの暗がりを示した。「それを引きずり出して、形にしている。で? それがわかったところで、どうしろと? 自分の心と戦えと? そんなの……」
「無理だ」健太が静かに言った。二人の視線が彼に集まる。「戦うのは無理だ。あれは……敵じゃないから」
階段ホールで、あの黒い影――彼自身の「内側の客」と対峙したときの感覚が、今も皮膚の下に蠢いていた。それは外から襲ってくる怪物ではなかった。彼自身の内側から滲み出て、彼の形を借りて立ち現れた、彼自身の一部だった。それを刃物で切り裂くことなど、自分自身の手足を切り落とすことに等しい。否、それ以上に深い、存在の根幹を否定する行為に感じられた。
「じゃあ、どうすればいい」美咲の声がわずかに震えた。「受け入れろと? この恐怖を、この気が狂いそうな感覚を、全部飲み込めと? そんなの……そんなの、私……」
彼女の言葉が途中で止まった。彼女の秩序への欲求、コントロールへの執着――それがこの館によって増幅され、逆に彼女を縛り付け、窒息させている。彼女はその檻を、自分自身の内側に感じているのだ。
健太は立ち上がった。足元の埃が、ゆっくりと舞い上がる。彼は拓也を覆うカーテンに目をやった。
「館は鏡だ」健太はゆっくりと言葉を紡いだ。「哲也の言う通り、私たちが持ってきたものを見せつけているだけだ。ならば……鏡に映るものは、鏡そのものではない。鏡の向こう側に、何かがある」
「出口が?」美咲が呟いた。
「わからない」健太は正直に答えた。「でも、拓也は……違うやり方を選んだ。『開かない』『動けない』……彼は鏡に映った自分の無力さを、そのまま受け入れた。否、受け入れるというより、それと一体化してしまった」
健太は階段ホールでの自分の体験を思い出した。あの時、彼は「行動する恐怖」という内なる声と対話した。いや、対話ですらなかった。ただ、その声の存在を認めた。それが、彼を「観察者」から、わずかながらも「動く者」へと変えた一歩だった。
「受け入れることと、飲み込まれることは違う」健太は自分自身に言い聞かせるように続けた。「鏡に映る自分の醜さを、それが自分だと認める。でも……それだけが自分じゃない。鏡は、光も映すはずだ」
彼は懐中電灯を手に取った。電池はもう限界だろう。光はかすかに黄色く、暗がりを押しのける力はほとんどない。
「館の中心へ行く」健太は言った。「今まで私たちが避けてきた場所だ。あの吹き抜けの階段の上、あるいは、あの無数の扉が並ぶ廊下の奥。この館が『意思』を持つとすれば、その中枢があるはずだ」
「意味があると思う?」哲也が問いかけた。彼の目には、依然として深い諦念が色濃く漂っていた。彼の内なる闇――無意味さへの確信――は、拓也の死によってさらに強化されているように見えた。
「意味があるかどうかは、行ってみなければわからない」健太は答えた。「でも、ここに座って、順番を待つよりは……ましだ」
一瞬の沈黙が流れた。その沈黙は、四人のそれぞれの内面で、小さな、しかし重い決断が下される時間だった。
美咲がゆっくりと立ち上がった。彼女は自分の服のほこりを、無意味なほど丁寧にはたいた。
「……私も行く」彼女は、自分の声に少し驚いているようだった。「秩序が崩れるのが怖い。でも……何も選択しないことの方が、今はもっと怖い」
哲也は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。彼はカーテンに覆われた拓也の遺体に、最後の一瞥を投げた。
「意味はないだろう」彼は呟いた。「でも、お前が選んだ道に付き合わなかったら……後で、うるさく言われそうだ」
健太の胸に、ほんのわずかな温もりが灯った。それは連帯感などという生易しいものではない。むしろ、共に沈む船の上で、互いの最期の姿を確認し合うような、切なく透明な共鳴だった。
そして、涼子がいた。彼女は依然として階段の影にいた。健太が彼女に近づき、膝をついた。
「涼子」声をできるだけ柔らかくするよう努めた。「一緒に来てくれるか」
涼子の瞳が、ゆっくりと健太の方に向いた。その目は、深い井戸の底のように、すべての光を吸い込んでいた。
「……声が、言うの」涼子の声はかすれ、ほとんど息づかいのようだった。「『どこにも行けない』『お前は一人だ』『誰も信じちゃいけない』って……」
「あの声は、君のものだ」健太は静かに言った。「君が長い間、聞こえないふりをしてきた、君自身の声の一部だ。怖いのは当然だ。でも……今、ここで、私たちは君を信じている。少なくとも、私は信じたい」
健太は手を差し伸べた。それは、引き上げるための手というより、ただ傍にいることを示すための、無防備な掌だった。
涼子は長い間、その手を見つめていた。そして、震える指先を、ほんの少し、健太の手のひらに触れた。その触れ合いは、氷の欠片がほんの一瞬で溶けるほどに儚かったが、確かにあった。
「……行く」涼子が囁いた。
四人は、最小限の荷物――ほとんど役に立たない懐中電灯と、残り少ない水の入ったボトル一つ――を手に、広間を後にした。出口は、吹き抜けの階段ホールへと続く、あの重い扉だった。彼らが最初に閉じ込められ、そして健太が「内側の客」と対峙した場所である。
扉を開けるとき、きしむ音が、館の深部にまで響き渡るような気がした。階段ホールは、以前よりもさらに冷え込み、空気が粘っこく淀んでいるように感じられた。巨大な吹き抜けの空間は、上を見上げれば見上げるほど、闇が濃縮され、天井はもはや視認できない深淵と化していた。あの時、健太が見た黒い影が立っていた壁の窪みは、相変わらず空虚で、埃が静かに積もっていた。
「上へ行く」健太が指さしたのは、階段の上層部、彼らがまだ本格的に探索していない領域だった。
階段を上り始める。一歩一歩が、信じられないほど重い。足を運ぶごとに、木の板がうめくような音を立て、それが何層にも重なって、館全体が彼らの動きを監視しているような錯覚を覚えた。壁には、雨漏りの跡が巨大な黒い涙のように流れ、壁紙は剥がれ、その下からはレンガや漆喰が、腐敗した歯茎のように覗いていた。
二階の踊り場に差し掛かったとき、涼子の懐中電灯が、パチリと音もなく消えた。
彼女は小さく息を呑んだが、悲鳴は上げなかった。ただ、暗闇の中、彼女の呼吸が浅く速くなるのがわかった。
「大丈夫か」健太が振り返った。
「……ええ」涼子の声は震えていた。「でも……囁きが、大きくなった。たくさんの声が……私に、こっちへ来いって……」
「こっち?」美咲が警戒して周囲を見回した。
踊り場には、三方に扉が立ち並んでいた。どれも同じように古び、取手は錆びついている。涼子が指さしたのは、中央の扉ではなかった。左側の、最も目立たない、小さな扉だった。その扉の前には、特に埃が多く積もっているわけでもなく、ただひっそりと、しかし確固として存在していた。
「あの扉から……声がする」涼子は目を閉じた。「嫌な声ばかり。私が子どもの頃、母が……いや、違う。先生が……みんなが……」
彼女の言葉は途切れ、混乱した。館は、彼女の過去の傷――「否定される感覚」――を拾い上げ、それを悪意に満ちた合唱へと変え、彼女の耳に直接流し込んでいるのだ。
「開けてみるか」哲也が言った。彼の声には、もう好奇心も恐怖もない。ただ、次の行動を淡々と提示するだけの平板さがあった。
「待って」健太が制止した。「涼子、その声……その声の向こうに、何か見える? 光とか、違う音とか」
涼子は眉をひそめ、耳を澄ませようとする。苦悶の表情が彼女の顔をよぎった。
「……わからない。声が邪魔する。でも……声の隙間から……とても静かな場所があるような……水の音が、かすかに……」
水の音。それは、この乾ききった館では考えられないものだった。
健太は決断した。「開けよう。でも、全員で。離れるな」
四人は、その小さな扉の前に集まった。健太が錆びた取手に手をかけた。金属の冷たさが、手のひらに鋭く突き刺さる。彼は力を込めた。
扉は、意外なほど滑らかに、音もなく開いた。
中からは、冷たい、湿った空気が流れ出てきた。懐中電灯の光が、内部をゆっくりと照らし出す。
そこは、書斎だった。いや、かつて書斎であった場所。壁一面に設えられた本棚は、ほとんどが空っぽで、わずかに残った何冊かの本は、湿気と虫に食われて、黒い塊と化していた。中央には大きなデスクが一つ、その上にはインク瓶が倒れ、黒い染みが永劫の花のようにデスクの表面に咲いていた。そして、部屋の奥、窓際には――窓は板で塞がれているはずなのに――なぜか薄暗い光が、ほのかに差し込んでいるように見えた。その光源の前に、一人の人物のシルエットが座っていた。
背は高くない。長い髪が、肩にかかっている。それは、健太が階段ホールで見た影とは、輪郭が異なる。より具体的で、より「人間的」だった。
四人は息を殺した。誰も動けない。恐怖が、足を地面に釘付けにした。
そのシルエットが、ゆっくりと振り向いた。
顔は、闇に覆われてはっきりとは見えない。しかし、その輪郭は……どこか見覚えがあるような、ないような。
「ようやく、来たね」
声が響いた。それは、男性の声でも女性の声でもない、年齢も定かではない、しかし驚くほどに「中立」で、澄んだ響きを持っていた。それは涼子が聞いていた悪意に満ちた囁きとは、まったく異質なものだった。
「あなたは……」美咲が声を絞り出した。「何者?」
「私は、この館の管理人と言えばいいのかな」その声は、わずかに笑いを含んでいるように聞こえた。「いや、正確ではない。私は、この館が映し出す、もう一つの顔……かもしれない」
「もう一つの顔?」健太が問い返した。
「君たちは、『内側の客』を見た。自分たちの闇を、ね。それは確かにここにある。でも、鏡は闇だけを映すわけじゃない。光が当たれば、光も映る。たとえその光が、とてもかすかで、儚いものだとしても」
シルエットはゆっくりと立ち上がった。その動きは、重さを感じさせない、ほとんど浮遊しているかのようだった。
「この館は、長い間、闇だけを増幅してきた。訪れる者たちの恐怖、絶望、醜い欲望……それらを餌に、自己を肥大化させてきた。でも、それだけでは……館自身が飢えていく。闇だけでは、完全な鏡にはなれない。光と影、両方が必要だ」
哲也が低く呟いた。「……私たちを、実験材料にしたのか」
「実験材料?」シルエットの声に、ほんの少しの哀れみが混じった。「違う。君たちは、自ら扉を開けて入ってきた。館は、君たちが持ってきたものに反応しただけだ。拓也という青年は……彼の内なる『諦め』の光――そう、闇の中にも、光はあるんだよ、放棄という形での――を館に捧げた。彼は、鏡に映る自分から目を背けず、それと一体化する道を選んだ。一つの終わり方だ」
「終わり方……」美咲の声が震えた。「他に、どんな終わり方が?」
シルエットは、四人を順番に見渡した。その視線が涼子に止まった。
「君は、ずっと声を聞いていたね。否定する声。それはつらかっただろう。でも、君は今、ここに立っている。あの声に飲み込まれずに。なぜだと思う?」
涼子は目を伏せた。「……わからない」
「君は、無意識のうちに、その声を『自分のもの』だと認め始めている。認めることと、従うことは違う。認めたからこそ、その声の向こうにある、もっと静かな場所――君自身が本当に求めている安らぎ――に、耳を傾ける余地が生まれた。あの水の音は、君の内なる光のささやきだ」
次に、その視線は美咲に向けられた。
「君は秩序を愛する。それは悪いことじゃない。でも、この館のような場所では、秩序は脆くも崩れる。君が恐れているのは、秩序そのものの崩壊ではなく、秩序が崩れた後に自分がどうなってしまうか、という自己の消滅だ。可是ね……崩れた秩序の瓦礫の下から、新しい芽は出てくることもある。コントロールできないものの中にこそ、本当の自由があるかもしれない」
美咲は唇を噛んだ。何も言い返せない。
そして哲也。
「君は、すべてが無意味だと思っている。それも一つの真実だ。この広大な宇宙から見れば、人間の営みなど塵にも満たない。でも……その無意味さを前にして、今、ここで、君はなぜ動いている? 拓也のため? 仲間のため? それとも……ただ、動くという行為そのものに、わずかな意味を見出そうとしている?」
哲也は目を閉じた。彼の顔には、深い疲労と、どこかで諦めきれない何かが同居していた。
最後に、健太。
「そして君。観察者から、当事者へ。その一歩を踏み出した。『行動する恐怖』と向き合った。でも、それはまだ始まりに過ぎない。これから先、君はもっと大きな選択を迫られるだろう。犠牲という名の選択を」
「犠牲?」健太の背筋が凍りついた。
シルエットは、窓際のほのかな光の方へ歩み寄った。その光は、板の隙間から漏れているのではなく、壁そのものから滲み出ているように見えた。
「この館から出る方法は、一つしかない」シルエットは言った。「館が満足すること。闇と光、両方を十分に映し出し、一時的にではあれ、『完全な鏡』となる瞬間。その時、鏡は……ただのガラスに戻る。扉は開く」
「どうすれば?」健太が詰め寄るように聞いた。
「館が必要としている最後の光は、『自発的な犠牲』の光だ」シルエットの声は、残酷なほどに平静だった。「闇は受動的だ。恐怖は、与えられるものだ。しかし、光、特に他者のための光は、能動的に選ばれなければ輝かない。誰か一人が、自分の意志で、この館の闇の一部を引き受け、ここに残ることを選ぶ。その選択が、残る者たちへの道を開く鍵となる」
一瞬、書斎の中が水を打ったように静かになった。
「……冗談だろ」哲也が最初に声を上げた。彼の声には、初めて感情――怒りに近いもの――がこもっていた。「また人を死なせろと? 拓也で十分じゃないのか!」
「拓也の選択は、『諦め』だった。それは受動的な終焉だ。館を満足させるほどの光にはならない。必要なのは、目を開き、覚悟を持って、他者を選ぶことだ。それが……この物語の、最後の一ページの書き方なんだ」
「そんなの……」美咲が震える声で言った。「そんな選択、できるわけがない。誰がそんな……」
「私がやる」
声は、とても小さく、しかしはっきりと響いた。
全員が振り向いた。発したのは、涼子だった。
彼女の顔には、涙が一筋、静かに流れていた。しかし、その目は、かつての虚ろさではなく、不思議なほどに澄み切っていた。囁きは、まだ聞こえているのだろう。だが、彼女はもう、それに耳を塞いではいない。声と向き合い、その奥にあるものを聞き取ろうとしている。
「涼子、だめだ」健太が即座に言った。「そんなこと……」
「私が……いいの」涼子は、健太を見つめながら、ゆっくりと首を振った。「私はずっと、一人だった。みんなに、変な子だって思われて。ここに来てからも、声が聞こえるって言って、怖がられて。でも……健太さんが、信じてくれた。みんなが、私を置いて行かなかった」
彼女の言葉は、たどたどしく、しかし一つ一つが確かな重みを持って落下していく。
「あの声……私の声は、私を苦しめる。でも、それは私の一部なんだ。ずっと否定してきた、弱くて、怖がりで、誰にも理解してもらえない私。その私を……ここに置いていく。この館が喜ぶなら……それで、みんなが外に出られるなら」
「涼子!」美咲が彼女の腕を掴んだ。「そんなこと言わないで! 私たち四人で、何か別の方法を考えるんだ!」
「もう、時間がないよ」涼子は、悲しげに、しかし優しく微笑んだ。「美咲さんの手、震えてる。健太さんの目も、疲れてる。哲也さんも……もう限界でしょ。私……ここにいれば、あの声とずっと一緒にいられる。それは、私には……ある意味、ふさわしい場所なのかもしれない」
シルエットが静かに言った。「覚悟はあるか?」
涼子は深く息を吸い込み、うなずいた。「うん」
その瞬間、書斎の空気が変わった。窓際から滲み出ていたほのかな光が、涼子の身体を包み込むように集まり始めた。それは暖かい光ではなく、冷たい、月のような青白い光だった。光に包まれる涼子の表情は、苦痛ではなく、深い安らぎに満ちているように見えた。彼女の耳に流れ込んでいた悪意の囁きは、次第に遠ざかり、やがて静寂に変わっていく。彼女自身の内なる声と、彼女自身が一体化していく過程だった。
「涼子!」健太が叫び、彼女に向かって駆け寄ろうとした。
しかし、彼の足が地面から離れない。見下ろすと、床から黒い、粘性のある影のようなものが這い出し、彼の足首を優しく、しかし確固として掴んでいた。それは力づくの束縛ではなく、彼自身の内なる「留めようとする気持ち」が形になったもののようだった。
「見送ってあげなさい」シルエットの声が響いた。「それが、彼女への最後の敬意だ」
光は次第に強まり、涼子の輪郭を溶かしていく。彼女は最後に、三人の方へ、ほんの少し手を振った。その笑顔は、子どもっぽく、無邪気で、彼女が本来持っていたはずの、傷つく前の姿のように思えた。
そして、光が最大になった瞬間、パチリと、どこかでスイッチが切れるような音がした。
光が消えた。
涼子の姿は、そこにはなかった。代わりに、彼女が立っていた場所には、一輪の、白い花のような光の残像が、ほんの一瞬だけ浮かび、そして消えていった。
同時に、館全体が震えた。
低く、うなるような音が、レンガの壁の奥から響いてくる。それは苦痛の声でも、喜びの声でもない、何か巨大なものが、長い眠りから覚め、その姿勢を変えるような、地響きのような音だった。
「扉が開く」シルエットが言った。その声は、以前よりもかすかになり、遠のいていくように聞こえた。「急ぎなさい。この状態は、長くは続かない」
三人は、茫然と立ち尽くしていた。涼子の消滅は、あまりにも突然で、あまりにも潔く、感情が追いつかない。悲しみよりも先に、虚無が胸を占めた。
「行こう」哲也が、砂を噛むような声で言った。彼は、涼子が消えた場所を見つめ、深く一礼した。その動作には、彼らしい、無駄を排した敬意が込められていた。
三人は、書斎を飛び出し、階段を駆け下りた。足を運ぶごとに、館の震えは大きくなり、天井から細かい砂埃が降り注いだ。壁のシミが、生き物のようにうごめき、広がっているように見えた。館は、涼子という「光」を取り込んだことにより、一時的な均衡を得て、その力を解き放ち始めているのだ。
広間を通り過ぎるとき、健太は拓也を覆うカーテンに目をやった。もう、あの丘に別れを告げる時間はない。
彼らが最初に閉じ込められた勝手口の扉までたどり着いた。あの重く、微動だにしなかった扉が、今、わずかに隙間を開けている。その隙間からは、外の空気――冷たく、湿っているが、確かに「生きた」空気――が流れ込んでいた。
美咲が真っ先に駆け寄り、扉に手をかけた。重いが、以前のようにびくともしないわけではなかった。軋みながら、ゆっくりと開いていく。
「手伝え!」彼女が叫んだ。
健太と哲也が加勢する。三人の力が合わさり、扉はさらに開いた。十分に人が通れる隙間ができた。
その瞬間、背後から、轟音が響いた。振り返ると、階段ホールの方から、黒い影の奔流が、津波のように押し寄せてくるのが見えた。それは、形のない恐怖そのもの、館がこれまで蓄積してきたすべての闇が、一時の均衡を失って暴走し始めたのだ。
「出ろ!」哲也が怒鳴った。
美咲がまず隙間をくぐり抜けた。次に哲也。健太が最後だった。彼が扉の外へ足を踏み出そうとしたその時、背後で何かが崩れ落ちる大きな音がした。広間の天井の一部が落ちたのだろう。その衝撃で、開いた扉が勢いよく閉まり始める。
「健太!」外から美咲の叫び声が聞こえた。
健太は体を捻り、なんとか扉の隙間から飛び出そうとした。しかし、彼のジャケットの裾が、閉まりゆく扉に挟まれた。彼は引きずられ、転倒しそうになる。
その時、一つの手が、彼の腕を強く掴んだ。哲也だった。彼は半分ほど外に出て、健太を引き寄せようとしていた。顔には必死の形相が浮かんでいる。
「離すな!」哲也の声が唸るように響く。
もう一つの手が加わった。美咲だ。二人の力で、健太は引きずり出されるようにして外へと放り出された。その反動で、哲也の体勢が崩れた。
ドン!という鈍い音と共に、重い扉が完全に閉じた。
健太と美咲は、扉の前の石段に転がり、息を切らしていた。冷たい夜気が、汗で濡れた皮膚に突き刺さる。頭上には、厚い雲の隙間から、わずかに星の光が覗いていた。雨はもう上がっていた。
そして、彼らは気づいた。哲也の片方の足が、閉じた扉の間に挟まれていた。足首から先が、扉の内側に残されたままだった。
「哲也!」美咲が這い寄った。
哲也の顔は歪んでいた。痛みにではなく、何か別の感情に。彼は扉に挟まれた足を見下ろし、そして健太と美咲の顔を交互に見た。
「……これで、帳尻が合ったかな」彼は、苦い笑いを浮かべてそう言った。
「何を言ってるの! 足を抜くのよ! 一緒に扉を開け直すの!」美咲が泣き声を上げながら、扉の取手を掴んで引っ張った。しかし、扉は再び、あの完璧なまでに堅固な塊と化していた。微動だにしない。
「無駄だ」哲也は静かに言った。「館は……もう満足した。涼子の光で。でも、完全に力を失う前に、最後のいたずらをしたんだろう。私を……引き留めることで」
彼は深く息を吸った。顔には、驚くほどの平静さが戻りつつあった。
「私はずっと、無意味だと思っていた。何をしても。でも……今、この瞬間だけは、意味があった気がする。お前たち二人を、外に押し出したこの行為に」
「そんなこと言わないで!」美咲の涙が止まらない。「私たち三人で、何とかするんだ! 諦めないで!」
哲也は美咲を見つめ、ほんの少し、優しい――彼らしい皮肉の混じらない、珍しく純粋な――表情を浮かべた。
「美咲……お前は、ちゃんと外の秩序に戻れ。そして、健太」彼は健太の方へ目を向けた。「観察者をやめたなら、次は……記録者になれ。このことを。涼子のことを。拓也のことを。そして、私のことも。誰かが覚えていなければ、本当に無意味になっちまうからな」
健太は喉が詰まった。言葉が出ない。ただ、うなずくことしかできなかった。
哲也は、挟まれた足に視線を落とした。彼はジャケットのポケットから、何かを取り出した。それは、小さな、刃物だった――おそらく、館の中で拾い、密かに持ち歩いていたものだろう。
「哲也! 何をするつもりだ!」健太が声を上げた。
哲也は何も答えなかった。彼の目には、深い決意が宿っていた。それは、ニヒリズムの先にある、ある種の潔さだった。彼は、自らの内なる闇――すべては無意味だという確信――を最後まで抱えながら、しかしその無意味さの中に、他者のために自らの一部を切り捨てるという、矛盾に満ちた「意味」を見出したのだ。
刃が閃いた。
美咲の悲鳴が、夜の森に吸い込まれていった。
次の瞬間、哲也の身体が、扉の外側へと倒れ込んできた。彼の片足は、足首から先が、扉の向こう側に残された。断面は……しかし、血はほとんど流れていなかった。まるで、傷口そのものがすぐに閉じられたかのように。
哲也は蒼白な顔で、地面にうつ伏せになった。彼は意識を保っていた。痛みに顔を歪めながらも、健太と美咲を見上げた。
「……早く……ここを……離れろ……」彼の声はかすれていた。「館は……まだ……完全には……」
彼の言葉が終わらないうちに、背後で、あの廃墟の洋館全体を覆うような、大きな崩壊音が響いた。振り返ると、レンガの壁に巨大な亀裂が走り、尖塔がゆっくりと、しかし確実に傾き始めている。館は、その役目を終え、物理的にも崩壊を始めようとしていた。
「哲也を連れて行く!」健太が叫び、哲也の腕を自分の肩に回した。
美咲ももう一方の肩を支えた。二人は、足を引きずる哲也を抱え、石段を下り、舗装もされていない山道へと駆け出した。
後ろからは、レンガが崩れ落ちる音、木材が折れる音が、絶え間なく響いてくる。彼らは振り返らず、ただ前へ、暗い森の中へと走り続けた。懐中電灯の光はもうない。月明かりだけを頼りに、でこぼこの道を進む。
どれだけ走っただろう。やがて、崩壊音が遠ざかり、森の静寂