第19章 職人たちの系譜―技と心を受け継ぐ者
東山の麓、朝霧がまだ祇園の石畳を濡らす時刻。四条通りの喧騒から一筋入った路地裏で、一つの料理屋の暖簾が静かに揺れている。この町の食を支えているのは、決してレシピや最新の機材だけではない。何より大切なのは、料理人の手であり、長年培われてきた感覚であり、そして何世代にもわたって受け継がれてきた「技と心」である。京都の食は、名もなき職人たちのたゆまぬ努力と、その背中を追いかける若者たちの情熱によって、今日も息づいている。
祇園の料理人・松本仁の世界
祇園の老舗料亭の料理長、松本仁(まつもと・じん)は五十七歳。彼がこの店の厨房に立ってから、既に三十五年が経過している。白い割烹着の胸元には、使い込まれた包丁の刺し模様が浮かび上がっている。彼の手は分厚く、指の第二関節には長年の研ぎ作業でできた硬いタコが幾つも張り付いている。その指で、一枚の昆布をそっと持ち上げると、彼は目を閉じた。
「今日の昆布は、少しだけ厚みがあるな。真昆布ならではの深い甘みが、もうここに漂っている。」
松本が語る修行時代の話は、現代の若者には想像もつかない厳しさに満ちている。十八歳で京都に出てきた彼は、最初の三年間、一度も包丁を握ることが許されなかった。毎朝夜明け前から台所に立ち、巨大な銅鍋を磨き、床を掃き、先輩の料理人が使った道具を丁寧に洗う。何より辛かったのは、昆布や鰹節の端材の在庫管理と、その香りの記憶を頭の中に刻み込む作業だった。
「師匠は『匂いを覚えろ』としか言わなかった。毎朝、昆布の保管庫の戸を開けて、その日の湿気や温度で変わった香りを、自分の鼻で覚え込ませる。夏の高温多湿の時は、昆布が幾分か甘やかな香りを強く放つ。冬の乾燥した空気の中では、香りが鋭くシャープに感じられる。そういう微細な違いが、後に昆布出汁を取る時の火加減の判断に、すべて生きてくるんだ。」
ある冬の日、松本は大きな過ちを犯した。師匠から「出汁を取れ」と言われ、緊張のあまり昆布を沸騰する湯の中に入れてしまったのだ。あっという間に鍋の中は濁り、苦味と雑味が全体に広がった。その日の仕出し料理の半分は、彼の失敗出汁で作らざるを得なかった。怒られるどころか、師匠は一言も叱らなかった。ただ、その日の夕餉の席で、松本の作った味噌汁を一口すすると、「これではこの里芋が泣いている」とだけ言い、残りの味噌汁を流しに捨てた。その言葉が松本の胸に深く突き刺さった。
「あの時、私は『食材に対して申し訳ない』という思いと『技術の未熟さ』を同時に思い知らされた。料理人にとって、最も大切なのは、目の前の素材の声を聞くことだと悟った。」
それ以来、松本は毎朝、最初にすべての食材に手を合わせる習慣がついた。それは単なる形式ではなく、その日の食材の状態を五感で確かめるための、一種の儀式でもある。魚の目玉の澄み具合、野菜の切り口から滲む水分の味、豆腐の表面の張り。それらすべてに彼は「語りかけ」、その応答を聞き取る。
伝統を重んじながらも、松本は決して過去に固執しない。彼は化学調味料を一切使わないが、最新の低温調理器を和の技法に応用し、真空包装技術を使って調味液の浸透をコントロールする。十年ほど前、彼が若い料理人の提案で導入した真空シーラーは、当初は師匠から「こんな機械に頼るとは何事だ」と叱責された。しかし、松本は粘り強く説明した。
「鮎の酢締めを作る時、従来の方法だと身が締まりすぎて硬くなることがある。真空の力で調味液を一瞬で染み込ませれば、身の柔らかさを保ったまま、味を均一にできる。これは『素材を傷つけない』という、我々の先祖が求めた理想を、新しい道具で実現しているに過ぎない。」
この言葉に師匠は黙ってうなずいた。伝統とは「変化しないこと」ではなく、「変わらない本質を、時代に合わせて実装し直すこと」だと、松本は確信している。
松本の料理哲学の根底には、道元が『典座教訓』で説いた「三心」の教えが息づいている。喜心──どんなに辛い下積みの仕事も喜んで行う心。老心──師匠を敬い、素材を慈しむ心。大心──粗末な食材も疎かにせず、最高の味に変える広大な心。松本は修行時代、師匠から直接この教えを聞いたわけではない。しかし、長年の経験の中で、その本質を自らのものとして体得してきた。
「喜心というのは、単に笑顔で仕事をすることじゃない。例えば、朝一番の昆布の匂いをかぐ時、その香りに感謝できるかどうかだ。老心とは、野菜の一本一本に、育てた農家の苦労を感じ取ること。大心とは、失敗した料理からも学びを得て、明日の料理に活かすこと。この三つの心が揃って初めて、料理人は独り立ちできるんだ。」
和菓子職人・杉本暦の手仕事
東山区の一角、古い町屋を改装した和菓子屋の店主、杉本暦(すぎもと・こよみ)は四十二歳。彼の仕事場は、店の奥にある八畳ほどの小さな作業場だ。杉本が向き合っているのは、一瞬で固まる練り切りという、最も繊細な和菓子の世界である。
「和菓子の命は『時間』です。季節の移ろい、花の開花、月の満ち欠け。その一瞬を、砂糖と豆と、そして水で表現する。」
杉本の手元を見ていると、まるで魔法を見ているかのようだ。白餡に食紅を少しずつ混ぜ込み、指先の体温で柔らかく練り上げていく。彼の掌は、まるで陶芸家が粘土に向き合うように、餡の温度と硬さを感じ取っている。そして、木べらで三度切ると、一瞬で桜の花びらのかたちが浮かび上がる。あとは絞り袋で中心に黄色い蕊を置けば、まるで今にも風に舞い散りそうな桜の練り切りが完成する。
杉本の修行時代も、厳しいものだった。彼が二十歳で入った京都の老舗和菓子店では、最初の一年間は「小豆の選別」だけを命じられた。大きな平ざるに広げられた小豆の中から、形の歪んだもの、虫食いのあるもの、色が変わりかけたものを、一つ一つ手で取り除く。一日中無言で続けるこの作業に、彼は何度も挫折しそうになった。
「当時は、なぜこんな単純作業をしなければならないのか、全く理解できなかった。しかし、三年経って初めて、小豆の『旬』がわかるようになった。収穫したての小豆は皮が薄く、甘みが濃い。一方、貯蔵が長くなった小豆は、皮が厚くなり、煮崩れしやすくなる。そして、その差は何よりも『色』に出る。鮮やかな紅色の小豆は、出来が良く、味も濃厚。だが、くすんだ色のものは、どんなに手をかけて煮ても、くすんだ餡にしかならない。この『見極める目』は、机の上では絶対に身につかない。」
杉本の和菓子に使われる水は、決して水道水ではない。彼は毎朝、店の裏手にある井戸から、地下水を汲み上げる。京都盆地の伏流水は、花崗岩の層を長い時間をかけて濾過され、ミネラル豊富で柔らかい。この水が、餡の口当たりを滑らかにし、砂糖の結晶を細かく分散させる。
「水は和菓子の命です。硬水で作ると、餡のえぐみが出やすい。また、練り切りの艶も失われてしまいます。京都の軟水だからこそ、あの『口の中で溶けるような』食感が生まれる。この地域に生まれたこと自体が、私にとって何よりの財産です。」
革新について、杉本は自身の考えを率直に語る。彼は毎年夏になると、若いパティシエとコラボレーションした「柚子とバジルのゼリー寄せ」のような、現代的なアレンジ菓子も手掛ける。しかし、そのベースには常に、伝統的な餡の技法が生きている。
「新しいことは好きですが、『味の本質』は変えません。例えば、バジルを使うなら、餡の甘みを少し控え、酸味とハーブの香りが引き立つように配合を調整する。見た目は現代風でも、『素材の味を殺さない』という、昔ながらの考え方が生きているんです。」
京野菜農家・加藤靖の哲学
京都府南端の山間部、大原の里で三代続く農家の加藤靖(かとう・やすし)は六十三歳。彼が育てるのは、伝統的な京野菜、特に「賀茂茄子」「堀川牛蒡」「聖護院大根」といった品種だ。彼の畑は、比叡山からの冷たい風が吹き抜ける、標高三百メートルの傾斜地にある。
「京都の盆地は、昼間はよく日が当たって暖かく、夜は急に冷え込む。この寒暖差が、野菜の糖度を高め、味を凝縮させるんです。特に、うちの茄子は『甘みが強い』と評判ですが、それは全てこの気候の賜物です。」
加藤の仕事は、夏の暑い盛り、日の出前から始まる。彼は帽子もかぶらず、裸足で畝の間に立ち、一本一本の茄子の葉の裏を丁寧に確認する。害虫がいないか、葉がしおれていないか、実の形が歪んでいないか。一つ一つを「子供を育てるように」見守る。
「私の父は、『野菜に嘘をつくな』と口癖のように言っていました。化学肥料をたくさんやれば、見た目は大きく育つけど、味は薄くなる。農薬をたくさん撒けば、きれいな形に育つけど、香りが失われる。自然のリズムに従い、手をかけ、時間をかける。それが、本当の『美味しさ』を作るんです。」
加藤が特にこだわるのは、土作りである。彼は化学肥料を一切使わず、牛糞と落ち葉で作った堆肥を、半年かけて熟成させてから畑に鋤き込む。この堆肥の中には、ミミズや微生物が数え切れないほど住み着いており、彼は「土が生きている」と表現する。
「土が元気なら、野菜も元気に育つ。根を深く張り、栄養をたっぷり吸い上げる。そうやって育った野菜は、火を通しても形が崩れず、甘みがぎっしり詰まっている。料亭の料理人が、『この野菜は最高だ』と言ってくれるのは、その証拠です。」
伝統と革新について、加藤も多くの試行錯誤を経験している。十数年前、収穫量を増やすために、新しい品種のハウス栽培を試みたことがあった。しかし、出来上がった茄子は、見た目は立派だが、味は水っぽく、料理人からの評判は散々だった。
「私は技術に頼ることを間違えた。伝統野菜が持つ本来の力を信じ、その力を引き出すために、自然と協調することが、農家の役割だと思い知らされました。」
包丁研ぎ師・田中美咲の技
京都の台所を支える、もう一つの大切な存在が、包丁研ぎ師である。中京区の路地裏に工房を構える、田中美咲(たなか・みさき)は四十歳。彼女のように数少ない女性の包丁研ぎ師は、地域の料理人からの信頼も厚い。彼女の手は、長年の鍛錬で男勝りに大きく、指の先は研ぎ粉でいつも真っ黒に染まっている。
「包丁は料理人の命です。どんなに新鮮な魚を手に入れても、どんなに腕のいい料理人が切っても、刃が鈍っていれば、素材を傷つけてしまう。良い包丁は、切った断面が鏡のように滑らかで、細胞を破壊しない。だから、素材の味が、切った瞬間から逃げ出さないんです。」
美咲が包丁研ぎを始めたのは、高校卒業後、父親の工房を継いでからだ。最初の三年間は、包丁に触ることさえ許されず、ひたすら砥石の平面出しだけを命じられた。数十種類の砥石を、一つ一つ、指先の感覚で平らに削り直す。その作業を繰り返し、砥石の表面の凸凹や、水を含んだ時の「抵抗感」を神経を集中して感じ取る訓練を積んだ。
「包丁を研ぐというのは、砥石の表面の『微細な凹凸の個性』を理解することから始まります。目の粗い砥石は、荒削りに向いているが、刃に傷がつきやすい。目の細かい砥石は、仕上げに適しているが、研ぐのに時間がかかる。それぞれの砥石の『性格』を、全身の感覚で覚え込むんです。」
ある時、祇園の料理人・松本仁から、高級な柳刃包丁が研ぎに出された。刃渡り三十センチ、値段は百万円を超える逸品だ。しかし、刃の先端が少し欠け、鋼が疲れていた。修理を依頼された美咲は、数時間かけて慎重に欠けを整え、刃の角度を均一に整えた。しかし、仕上げの段階で、少し力を入れすぎてしまい、刃先にわずかな「ひっかかり」が生まれてしまった。その微小なミスを、彼女が指先で見つけた時、一瞬で後悔に襲われた。
「その時、私は、包丁に『申し訳ない』と思った。この一本の包丁には、松本さんの十年以上の思いが込められている。その思いを、私の一瞬のミスで台無しにしてしまうところだった。それ以来、どんなに簡単な作業でも、一呼吸おいてから、包丁に向き合うようにしている。」
美咲の工房には、料理人たちから預かった包丁が常時数百本並んでいる。それぞれの包丁に、使い手の癖やこだわりが染みついている。彼女は包丁を研ぐ前に、まずその包丁の「声」を聞く。研ぎ減りの具合、刃の反り具合、刃先の傷。それらすべてが、使い手の料理のスタイルと、練習の積み重ねを語っている。
「包丁は、料理人の『内面』を映す鏡です。丁寧に扱う人は、刃の状態も美しい。雑に扱う人は、刃に傷が多い。そして、何より『素材を切る時の心』が、包丁に表れる。魚を切る時に、『美味しくなれ』と願いながら包丁を入れる人は、刃に滑らかな曲線が残る。逆に、『早く終わらせたい』と思いながら切る人は、刃に小刻みな傷がつく。私の仕事は、その『心』までも、砥石で整えることだと思っている。」
技の系譜―師弟関係と技術継承の連鎖
これらの職人たちを結びつけるもの。それは単なる人脈ではなく、技術と精神が世代を超えて連鎖する「系譜」そのものである。松本仁の師匠は、大正生まれの伝説的な料理人から直接指導を受けた。その師匠はさらに、明治期の京料理の巨匠に学んでいる。杉本暦の師匠は、江戸末期に創業した老舗の四代目であり、その技術は百五十年の歴史を持つ流派に連なる。
松本は語る。「技術の系譜というのは、単に『技のコピー』を繰り返すことじゃない。師匠から教わった『心』を、自分の経験で裏打ちし、そして次の世代に新しい形で伝える。それが本当の継承だ。」
杉本もまた、自身の師匠が口にした言葉を大切にしている。「師匠はよく言っていた。『和菓子は、三代先の客のために作れ』と。つまり、単に今の流行を追うのではなく、後世に残る本物を創り続けろという教えだった。」
この系譜の連鎖は、包丁研ぎ師の世界でも同様である。美咲の父親は、昭和の時代に京都中の料理人から信頼された名人だった。父親は口数が少なかったが、研ぎ終えた包丁を渡す時の、その指先の繊細な動きを、美咲は幼い頃から無意識に体に刻み込んでいた。
「父は『技は目で見て盗め』と言いながら、決して無頓着ではなかった。私が砥石を荒く扱うと、必ず一瞥して、無言で砥石を持ち直した。その目線の意味を理解するのに、私は何年もかかった。」
こうした師弟関係は、単なる上下関係ではなく、互いへの深い信頼と尊敬に支えられている。そして、その関係を支えるのが、道元が説いた「三心」の教えに通じる精神性である。喜心を持って弟子は師の背中を追い、老心を持って師は弟子を慈しみ、大心を持って両者は技の本質に向き合う。
職人同士のネットワークと信頼関係
松本、杉本、加藤、美咲。彼らは、単独で活動しているように見えて、実際には強固なネットワークで結ばれている。その中心にあるのは、互いへの「信頼」と「敬意」である。
松本は、毎朝必ず加藤の畑に電話を入れ、その日の野菜の状態を確認する。「今日の聖護院大根は、肌の張りがいいですね。蒸し物に使いたいのですが、硬さはいかがですか?」「今日は収穫したばかりで、水分がたっぷりあります。蒸しすぎると崩れやすいから、注意してください。」こうした会話は、三十年近く続いている。
「加藤さんは、ただの野菜の売り手ではない。私にとっては、『食材の責任者』だ。彼が育てた野菜の一つ一つの背景を理解していなければ、本当の『京料理』は作れない。」
杉本が器を注文するのは、清水焼の窯元である。彼は毎年、年に一度、窯元の主と二人で、翌年の献立に合わせた器のデザインを構想する。春の花見の饅頭には、桜の花びらをかたどった小皿が合う。秋の栗きんとんには、落ち葉の形をした深皿が映える。単なる器ではなく、菓子と一体となって季節を表現する、芸術作品が生まれる。
「器は、和菓子の着物のようなもの。器の色や形が菓子の印象を変える。窯元の方と話し合う時間は、私の創作の根幹をなす大切な時間です。」
美咲は、料理人が包丁の研ぎ具合を評価する様子を、いつも注意深く観察している。ある料理人が包丁を受け取り、サッと大根を切った瞬間、その目が一瞬で輝くのを見逃さない。その一瞬に、彼女の技術のすべてが報われる。
「料理人の『一振り』を想像しながら、包丁を研ぐ。彼が魚を切る時のリズムや、素材に包丁を入れる角度を考える。その信頼関係が、私の仕事の原動力です。」
「系譜」の現代的意義―気候変動と職人離れ
しかし、この千年続く系譜も、現代の大きな課題に直面している。一つは気候変動である。加藤は、この十年で明らかに異変を感じているという。
「かつては秋の彼岸を過ぎれば、ぐっと冷え込み、野菜の糖度が一気に上がった。ところが最近は、十月に入っても夏日のような日が続くことがある。そうなると、賀茂茄子の実の締まりが悪くなり、甘みも薄くなる。温暖化は、私たち農家にとって死活問題です。」
松本もまた、気候変動が食材の品質に与える影響を深刻に受け止めている。「例えば、昆布の産地でも水温の上昇で品質が変化している。昔と同じやり方では、同じ味が出せなくなってきている。だからこそ、それぞれの年、それぞれの季節の『今』の素材を見極める力が、ますます重要になっている。」
もう一つの大きな課題は、若者の職人離れである。京都調理師専門学校の林田義彦校長は、その現実を痛感している。
「昔に比べて、料理人を志す学生は確実に減っている。理由は様々だ。長時間労働、低い初任給、厳しい上下関係。そして何より、家庭で包丁を持つ機会が減り、子供の頃から料理に親しむという体験が失われている。」
この現状に対し、松本たちは新しい形での継承の道を模索している。松本は、週末に一般向けの料理教室を開き、そこから才能ある若者を発掘して弟子として迎え入れることもある。杉本は、SNSで和菓子作りの工程を公開し、全国から見学希望者を受け入れている。
「変わらなければ、残るものも残らない。」松本はそう断言する。「昔ながらの厳しい修行だけにこだわっていては、才能ある若者は離れていく。大切なのは、本質は守りながら、継承の方法を時代に合わせて柔軟に変えていくことだ。」
技術継承のための仕組み―京都調理師専門学校
こうした職人の技は、もはや徒弟制度だけでは継承が難しくなっている。現代の若者は、厳しい修行に耐えながら、十年単位で技術を身につけることは、経済的にも精神的にも難しい。そこで、重要な役割を果たすのが、専門学校などの公的な教育機関である。
「京都調理師専門学校」は、昭和二十年の創立以来、延べ一万人以上の料理人を輩出してきた。学校長の林田義彦(はやしだ・よしひこ)は、六十歳。彼自身も祇園の料亭で三十年の経験を持つ、ベテランの料理人だ。
「昔は、『技は盗め』というのが当たり前だった。しかし、今の若者に、数年も皿洗いだけをさせるというやり方は、もう通用しない。そこで、我々は『基礎を徹底的に教える』という方針をとっています。」
専門学校のカリキュラムは、二学期制で構成されている。一年次は、まず「包丁の持ち方」「野菜の切り方」といった基本動作を、ひたすら繰り返し練習する。講師は、現役の料理人たちで、彼らは生徒一人一人の手の動きを注意深く観察し、細かく指導する。
「かつら剥きの練習では、最初は大根ではなく、柔らかい豆腐で練習させることもあります。そうすることで、力加減を覚えると同時に、『素材に優しく触れる』という感覚を養うんです。」
二年次になると、実際の料亭でのインターンシップが始まる。生徒は一週間、就業時間の朝五時から、夜の十一時まで、厨房に張り付いて先輩の背中を見学する。そして、習ったことを学校に戻って復習し、さらに次のインターンシップで実践する。この「学校で学び、現場で深める」というサイクルが、即戦力となる技術を身につける鍵となっている。
しかし、林田は技術だけでは不十分だと言う。「料理人に必要なのは、『心』の部分です。我々は、『三心』の教えも授業に取り入れています。喜心、老心、大心。この三つの心がなければ、どれだけ技術が優れていても、良い料理は作れない。」
伝統と革新の狭間で
技術継承の最大の課題は、「伝統を守りながら、いかに革新を取り入れるか」という、永遠のジレンマである。
松本は言う。「伝統というのは、『型』です。型をしっかり身につければ、その型を応用して、新しいものを作ることができる。しかし、型を身につけずに、ただ新しいものだけを追いかければ、それはただの『新奇性』で終わってしまう。」
杉本も同じ考えだ。「私が和菓子にアレンジを加える時、必ず『このアレンジは、伝統の味を壊していないか』と自問します。素材そのものの魅力を引き出すという、大原則を忘れてはいけない。」
加藤は、農業の現場でその課題を痛感している。「品種改良は必要です。病気に強い品種、収穫量の多い品種。しかし、その中で『伝統野菜の味』を守るのは、ますます難しくなっている。私は、種を自家採取して、昔ながらのDNAを受け継ぎながら、より時代に合った栽培方法を模索しています。」
未来への継承
千年の歴史を誇る京都の食文化も、その継承は決して盤石ではない。少子高齢化、若者の料理職離れ、安価な輸入食材の台頭。克服すべき課題は山積している。そして、気候変動は彼らの仕事の前提そのものを揺るがしている。しかし、これらの課題こそが、彼らの「系譜」の強さを試す試金石でもある。
松本の料理教室には、週末ごとに20人以上の若者が集まる。杉本の和菓子教室には、海外からの生徒も増えている。美咲の研ぎ方講習会には、料理人だけでなく、一般の家庭料理愛好家も参加するようになった。一人ひとりの小さな輪が、確実に次世代へとつながっている。
「技術は、人から人へ伝えるもの。そして、その技術を伝えることは、同時に『心』を伝えることでもある。」松本はそう言い、包丁を砥石に当てる音を聞きながら、微笑む。「この音が、千年先まで続くように。それが、私たち職人に課せられた使命だ。」
東山から昇る朝日が、澄んだ空気を通して、キラキラと光る。今日も、京都の台所では、無数の手が動き、無数の包丁が唸る。そして、その一つ一つの音が、千年のレシピを紡ぎ続けている。技と心を受け継ぐ者たちの物語は、今日もまた、新たな一ページを刻んでいるのである。