第20章 月の裏側
気がつけば、もう秋も終わりに近づいていた。
窓の外では、裸になった欅の枝が風に揺れている。その向こうに、かぼそい三日月がかかっている。私はコミュニティスペースの隅っこ、電源コンセントに最も近い席に座って、参加者が到着するのを待っていた。ノートパソコンの画面には、まだ開いていないスライドの表紙が表示されている。タイトルは「Pythonで作る、ちいさなWebアプリケーション」。初歩の初歩だ。おそらく私が転んだ時に地面に手をつく程度の語彙力で説明できるレベルの内容。それでも、私にとっては大冒険だった。
「すみません、ここ、空いてますか?」
声をかけられて、私は弾かれたように顔を上げた。二十歳そこそこの女性が、少し緊張した面持ちで立っている。私は咄嗟に口角を持ち上げた。計測したことのない角度で、しかし確かに、「笑顔」の形に。昔から変わらぬ、あの仮面を。
「はい、どうぞ。あ、僕も講師なんで、その、よろしくお願いします」
よろしくお願いします、と彼女は言い、私の斜め前の席に座った。私は胸の内で深呼吸を一つ。心臓が五月蠅い。ワークショップなんて、開くんじゃなかった。
***
このワークショップを開こうと思い立ったのは、あのエッセイを公開してから一週間が経った頃だった。
あのエッセイ——そう、このすべてを綴った自称・告白録のようなものを、私はnoteに投稿したのだ。きっかけは些細なことだった。あのエレベーターでの沈黙の後、私は自分を許せないまま毎日をやり過ごしていた。書類の山に埋もれ、コードの海に溺れ、仮面を被っては外し、外してはまた被るような日々。
ある夜、いつものように月が窓の外に浮かんでいた。真ん丸な、おそろしいほどに白い月だった。酒を呷りながら、私はそれを見上げていた。酔いが回るにつれ、ふと、書いてみようと思った。幼稚園のあの日から、今この瞬間までの、自分というプログラムのソースコードを、全部書き出してみようと。
最初は自分用のメモのつもりだった。自分のための、せめてもの自己診断ログみたいなもの。でも書いていくうちに、それが誰かに向けての手紙のようになっていった。この得体の知れない孤独、仮面の裏側にある本当の自分——そんなものを、誰かに伝えたいという衝動が、私の指を動かした。
公開ボタンを押したのは、また別の月の夜だった。酒の勢いも手伝って、私は恐ろしいことをやってのけた。押してから、すぐに後悔した。削除しようとした。でも、酒に溺れた私の指は、マウスを正確に操作できなかった。そのまま、私はベッドに倒れ込んだ。
翌朝、二日酔いで濁った頭でスマートフォンを開くと、通知が山のように積まれていた。スキ、フォロー、そしてコメント。
『すごくわかります。私も同じような気持ちを抱えています』
『この“仮面”の描写、自分にも当てはまるところがあって、泣きそうになりました』
『プログラマーじゃないけど、心の奥底を覗かれた気がします。ありがとう』
私はそれらを一通り読んで、しばらくの間、動けなくなった。スマートフォンを握る手が震えていた。これは喜びの震えか、それとも恐怖の震えか——自分でもよくわからなかった。予想もしない共感の波が、私という存在をぐらぐらと揺さぶっていた。
そして、その中に一通のメッセージがあった。見覚えのあるアイコン。あのデザイナーだ。彼女からのメッセージには、こう書いてあった。
『コードも文章も、あなたのそれはいつも物語みたいだなと思います。今度、話してみませんか?』
思わず、私はスマートフォンを落としそうになった。
***
結局、彼女と話す機会は、直接には持てなかった。私が怖じ気づいたからだ。話してみませんか、という言葉の意味を、何百通りにも解釈しては、自分を納得させる材料を探した。きっと社交辞令だ、彼女は誰にでもああいう優しい言葉をかける人だ——そう自分に言い聞かせた。
その代わりと言っては何だが、私は別のことを始めた。このコミュニティスペースで、プログラミングのワークショップを開くことにしたのだ。これもまた、あのエッセイへの反響の中でのひらめきだった。
『私もプログラミングを学んでみたいけど、最初の一歩が踏み出せなくて』——そんなコメントがいくつかあったのだ。
私は、自分が高校の図書館でPython入門書に出会った時のことを思い出した。あの夜、初めて数当てゲームを作った時の、あの衝撃と感動。コードは嘘をつかない、という確信。それを、ただきっかけが欲しいだけの人に、そっと手渡すことはできないだろうか。
そんな思いが、私の背中を押した。
場所は、この街の小さなコミュニティスペース。月に二回、土曜の午後二時から四時まで。参加費無料。定員は八名。講師は、私一人。
準備は、それはもうてんやわんやだった。スライドを作るのも、資料を用意するのも、全てが初めての経験。上司のS主任に相談すると、彼は嬉しそうに笑って、「いいね、それ。君の経験はきっと誰かの役に立つよ」と言ってくれた。私はその言葉が嬉しくて、でも素直に喜べなくて、またあの笑顔で誤魔化した。
「いや、そんな大したものじゃないですけどね」
「またそれか。まあ、頑張れよ」
S主任は、そう言って肩を叩いてくれた。その手の温もりが、胸の奥にじんわりと広がった。
***
「えーっと、それでは、始めます」
時計の針が二時を指したのを確認して、私は立ち上がった。参加者は六人。予想より少なかったが、それでも六人の視線が私に集中するのを感じて、一瞬、呼吸が止まった。
頭の中に、いつものスクリプトが再生される。口角を上げろ、目じりを緩めろ、声のトーンを半音高く——でも、今日はそのスクリプトを、あえて無視することにした。私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「僕は、Tと言います。普段はIT企業でプログラマーをやっています。今日は、本当に、超初歩的なところから、一緒にやっていきたいと思います」
声が、少し震えていた。いつもの陽気なトークではない。もっと平坦な、むしろ暗いと言ってもいい声。でも、それが今の、仮面を少しだけ剥がした私の声だった。
「まず、プログラミングって何だと思いますか? 難しい言葉で言うと、コンピュータに指示を出すための言語なんですけど……僕は、もっと単純にこう思っています。『嘘をつかない世界』だと」
参加者の一人が、不思議そうな顔をした。私は苦笑いを浮かべる——それが仮面かどうか、自分でもわからない。
「人間って、よく嘘をつくじゃないですか。建前とか、社交辞令とか、『大丈夫』って言いながら実は大丈夫じゃなかったりとか。でも、プログラムはそうじゃない。書いた通りに動く。エラーが出たら、その原因が必ずある。直せる。嘘がないんです。それが、僕にとってはすごく、救いだったんです」
言いながら、私は自分で驚いていた。こんなこと、普段の自分なら決して口にしない。仮面を被ったまま、スマートなテクニック論を語って、時間をやり過ごす。それがいつものパターンだ。でも今日は、なぜか、素の言葉が出てきた。
六人の参加者は、それぞれに頷いたり、メモを取ったりしている。その中に、最初に席に着いたあの女性がいた。彼女は、真剣な眼差しで私を見つめていた。その視線に、私は少しだけ勇気をもらった。
***
ワークショップは、思っていたよりもうまくいった。
最初に書いたのは、お決まりの「Hello, World!」だ。これを、皆で一緒に打ち込む。画面に「Hello, World!」という文字が浮かび上がった時、一人の中年男性が「おおっ」と声を上げた。
「動いた! これ、動いたんですね!」
その喜びようが、まるで子供のようで、私は思わず笑ってしまった。それが、私にとってはとても自然な笑顔だったことに、あとで気がついた。
次に、簡単な計算プログラムを作った。二つの数字を入力すると、その合計を表示するだけのもの。それでも、参加者たちはそれぞれに試行錯誤しながら、楽しそうに取り組んでいた。
「先生、これ、どうすればいいんですか?」
「先生、できました!」
先生、という呼ばれ方に、私はまだ慣れない。でも、それが悪い気はしなかった。むしろ、少しだけ、胸の奥が温かくなるような感覚があった。
途中、あの女性が手を挙げた。
「すみません。エラーが出たんですけど……どうやって直せばいいですか?」
私は彼女の席に歩いていき、画面を覗き込んだ。エラーメッセージは、よくあるタイプミスだった。変数名が間違っていたのだ。
「あ、ここですね。'num1'じゃなくて、'num_1'になってます。アンダースコアが抜けてますね」
直しながら、私は説明した。変数名の付け方のルール、なぜそれが大事か——そういう基本的なことを、噛み砕いて話した。
彼女は「あー、なるほど」と言って、自分で修正した。そして、コードが正しく動いたのを確認すると、ぱっと顔を輝かせた。
「動いた! ありがとうございます!」
その笑顔に、私はまた、胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。しかしそれは、かつての自己嫌悪とは違う、別種の感情だった。
***
二時間は、あっという間に過ぎた。
「今日は、本当にありがとうございました。初歩の初歩でしたけど、プログラミングの楽しさが、少しだけわかった気がします」
そう言って帰っていく参加者たちを見送りながら、私は一人、コミュニティスペースに残った。片付けをしながら、今日の出来事を反芻する。
うまくいった部分もあった。全然うまくいかなかった部分もあった。説明がわかりにくかった時もあったし、質問にすぐ答えられなかった時もあった。それでも、参加者たちの表情は、帰るときにはみんな、どこか晴れやかだった。
それが、何よりの報酬だった。
私は窓辺に立った。外はもう暗くなっている。三日月は、もう少し太くなっていた。
「明日も、コードを書くんだろうな」
私は、ぽつりと呟いた。
***
あのエッセイを公開してから、私はいくつかの変化に気づいた。
まず、自分の弱さを、少しだけ認められるようになった。かつては、自分の弱さは隠すべきもの、欠点として修正すべきものだと思っていた。でも、あのエッセイに寄せられたコメントを読んで、違うかもしれないと思い始めた。
弱さは、共有できるものなのだ。誰かとつながるための、入り口になり得るものなのだ。
もちろん、今でも私は仮面を被る。仕事中は、特にそうだ。商談や打ち合わせでは、口角を上げ、目じりを緩め、声のトーンを調整する。その技術は、私の一部としてすり込まれている。
しかし、少しだけ、その仮面を外す勇気が出てきた。今のこのワークショップのように、自分が最も弱いと思う部分——人間関係の苦手さ、自己評価の低さ、コードへの依存——を、あえて見せることを選べるようになった。
それは、私にとって革命的なことだった。
完全に変わったわけではない。むしろ、変わらないままの自分を、どう受け入れるかを学びつつあるのだと思う。弱さと共存する、ということ。それも一つの生き方なのだと、私はようやく理解し始めている。
***
週が明けて、出社した月曜日。
デスクに着くと、一通のメールが届いていた。件名は「ワークショップの感想」。あの女性参加者からだった。
『先日はありがとうございました。プログラミングに触れるのは初めてで、不安だったんですが、Tさんの優しい教え方のおかげで、楽しく学べました。特に、プログラムは嘘をつかない、というお話がとても印象的でした。私も、嘘のない何かを作りたいと思いました。また参加したいです。よろしくお願いします』
私はそのメールを、何度も何度も読み返した。そして、ふと、自分が笑っていることに気がついた。仮面の笑顔ではなく、自然と湧き上がる、心からの笑顔だった。
「どうした、嬉しそうじゃないか」
声がして顔を上げると、S主任がコーヒーカップを手に、私のデスクの脇に立っていた。
「いや、その……ワークショップの参加者から、感想をいただいて」
「お、それは良かったな。どんな感じだった?」
「始める前は本当に不安で、自分なんかが教えていいのか、って思ってたんですけど……意外と、楽しかったです」
「そうか。それが何よりだ」
S主任は、優しい笑顔を浮かべた。私は、その笑顔を見て、また少しだけ、心が軽くなった。
「あ、あの、S主任」
「ん?」
「次のワークショップも、やってもいいですか?」
私の言葉に、S主任は少し驚いた顔をしたあと、大きく頷いた。
「もちろんだ。応援するよ」
その言葉が、胸に染みた。
***
それからの数週間、私は週末ごとにワークショップを開いた。
参加者は少しずつ増えていった。口コミで広がったのか、知らない人から申し込みが来るようになった。中には、他のワークショップにも参加しているというベテランもいたが、ほとんどは初心者だった。
毎回、私は同じように説明する。プログラムは嘘をつかない、という自分の信条を。コードの世界の正直さを。そして、少しだけ自分の弱さも見せる。
「僕は、人間関係がすごく苦手で。昔から、いつも笑顔で誤魔化してきたんです。でも、コードの前では、嘘をつく必要がない。それが、僕にとっての救いでした」
参加者たちは、それぞれに頷く。中には、自分の悩みを打ち明けてくれる人もいた。
「私も、人と話すのがすごく苦手で。会社でも、なかなか打ち解けられなくて」
「僕は、うつ病を患っていて。プログラミングだけが、生きる支えなんです」
私は、そういう話を聞くたびに思う。孤独は、決して特別なものではない。誰もが何かしらの仮面を被って、この世界を生きている。そして、その仮面を少しだけ剥がした時に、初めて本当のつながりが生まれるのだと。
***
十二月に入ったある日、私は久しぶりに、あの屋上に立っていた。
夜の空気は冷たく、吐く息が白く濁る。街の明かりが、眼下に広がっている。その向こうには、満月が煌々と輝いていた。
私は、手すりに両肘をついて、その月を見上げた。
あの日、告白に失敗した夜も、こんな月だった。あの日、エッセイを公開した夜も、こんな月だった。そして今も、月は変わらずそこにある。
月は、いつも孤独だ。誰も住んでいない。空気もない。水もない。ただ、地球の影を浴びながら、静かに回り続けている。
でも、月の裏側には、誰も見たことのない風景がある。そして、それを知っているのは、月自身だけだ。
私はふと、自分と月を重ねてみた。表側では、いつも同じ顔を見せている。口角を上げ、目じりを緩め、誰にでも優しい笑顔を振りまく。でも、裏側には、全く別の世界がある。誰にも見せられない、傷だらけの、弱さに満ちた世界。
そして、その二つは、決して切り離せない。表と裏があって、初めて月は月なのだ。
「まあ、いいか」
私は、独り言を言った。それが、最近の私の口癖だった。
完全に変わる必要なんてない。仮面を全部捨てる必要もない。ただ、時々でいいから、その仮面を少しだけ緩めて、本当の自分を見せられれば。それでいいんだ。
私は、屋上を後にした。階段を下りながら、明日のワークショップのことを考える。新しい教材を用意しよう。もう少しだけ、レベルアップした内容でも大丈夫かもしれない。そう考えている自分が、少しだけ、誇らしかった。
***
数日後、またワークショップの日がやってきた。
今回は、参加者が十人に増えていた。コミュニティスペースの部屋が、少し狭く感じる。その中には、前回の参加者も何人かいて、彼らはもう顔なじみのように、私に話しかけてくる。
「先生、前回やった変数の復習、家でやってきました!」
「私も、簡単な計算プログラム、作ってみました!」
そう言って、ノートパソコンの画面を見せてくれる。そこには、たどたどしいながらも、確かに彼らが書いたプログラムが動いていた。
私は、その一つ一つを確認しながら、適切なアドバイスをしていく。時には、バグの原因を一緒に探す。時には、もっと効率的な書き方を提案する。
そして、そういうやり取りの中で、私は気がつく。これが、私が求めていたつながりなのかもしれない、と。
かつて私は、人とのつながりを、もっと劇的なものだと思っていた。運命的な出会い、一瞬で心を通わせる会話、互いを理解し合える関係——そんなものを夢見ていた。しかし、実際に私が得たのは、もっと小さな、しかし確かなものだった。コードの話をする。バグの原因を一緒に考える。ちょっとした成功を分かち合う。そういう、ごく当たり前のやり取りの中に、私は少しずつ、自分の居場所を見つけ始めていた。
ワークショップが終わり、参加者たちが帰っていく。最後に、あの最初の参加者——二十歳そこそこの女性が、私のところに来た。
「先生、今日もありがとうございました。すごく楽しかったです」
「いえいえ、こちらこそ」
「あの、よかったら、なんですけど……」
彼女は少し躊躇した後、続けた。
「今度、ワークショップの後で、皆でお茶でもしませんか? せっかく知り合ったんだし、もっと話してみたいな、って思って」
私は、一瞬、固まった。断る口実を探そうとした。でも、その前に、私の口は勝手に動いていた。
「……いいですね。そうしましょう」
その言葉に、自分でも驚いた。しかし、その後悔は、すぐに消えた。
彼女が笑顔で「やった! じゃあ、次回、決めましょうね!」と言って、去っていく。その後ろ姿を見送りながら、私は深く息を吐いた。
新しい挑戦だ。また一歩、踏み出した。まだ完全に仮面を外したわけじゃない。でも、少しだけ、その下の素顔が見え始めている。
それでいい。それで十分だ。
***
夜、帰宅して、シャワーを浴び、ベッドに寝転がる。窓からは、また月が見える。今日は、少し欠けている。満ちたり欠けたり、月はいつも形を変える。
人間も、そうかもしれない。完全な姿なんてない。完璧な自分なんて、いない。ただ、その時々で、形を変えながら、生きているだけだ。
私は、枕元のスマートフォンを手に取った。そして、あのエッセイを開いた。もう三ヶ月も前の記事だ。それでも、まだ時々、スキやコメントが届く。
最新のコメントを開く。そこには、娘を持つ母親からのメッセージがあった。
『このエッセイを読んで、私の娘を思い出しました。彼女も、人と話すのが苦手で、いつも無理に笑っているように見えます。でも、あなたのような人がいることを知って、少し安心しました。あなたは、一人じゃないですよ』
私は、そのコメントを何度も読み返した。そして、気がついたら、目の端が熱くなっていた。
「一人じゃない」
その言葉が、胸に沁みる。そうか、私は一人じゃなかったのか——そう思えることが、ただただ、ありがたかった。
私は、スマートフォンを置いて、天井を見上げた。
月の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。薄青い、静かな光。
明日も、私はコードを書く。仕事で、バグと格闘する。たぶん、またどっかでミスをする。自己嫌悪に陥ることもある。仮面を被って、やり過ごす日もある。
でも、もうそれでいいと思えるようになった。
弱さと共存する。自分を許す。偽りの自分と本当の自分の間で、バランスを取りながら生きる。それが、私の選んだ道だ。
そして、月の夜が来るたびに、私は思い出す。自分が、どんなに弱くて、愚かで、それでも前に進もうとしていることを。
月の裏側には、誰も見たことのない風景がある。そして、それを見ているのは、私だけだ。
私は、目を閉じた。
明日も、コードを書く。ワークショップもある。新しい参加者が来るかもしれない。うまく説明できないこともあるだろう。でも、それでいい。
月は、今夜も、静かに昇る。そして、明日もまた、沈む。
その繰り返しの中で、私は少しずつ、自分というプログラムを書き換えていく。バグを修正し、機能を追加し、より良いものにアップデートする。
完璧には、なれないけれど。
それでも、前に進むことを、やめなければ——それだけで、十分なのだ。
窓の外で、月が雲に隠れた。またすぐに、その姿を現すだろう。満ち欠けを繰り返しながら、永遠に、そこにあり続ける。
私も、そうありたいと思う。
弱さを抱えたまま、それでも、その弱さをネタに笑える自分でいること。自分の不完全さを認め、それと共に歩いていくこと。それが、私にとっての再生だった。
幕は、閉じない。まだ、これからだ。
私は、そっと呟いた。
「おやすみ、月。また明日」
そして、私は眠りについた。明日という名の、また一つのループを、受け入れるために。
——
それが、私の物語の、一応の結末だ。
エピローグというには、あまりに不完全な、まだ続きがあることを示唆するような終わり方。でも、それが今の私には、ちょうどいい。
完全な克服なんて、ありえない。魔法のように全てが変わることなんて、ない。あの日の私が、今日の私になるまでには、たくさんの小さなステップがあった。そして、これからも、小さなステップは続いていく。
ワークショップは、毎月続けている。参加者は少しずつ増えて、今では常連もできた。彼らと、ワークショップの後でお茶を飲むこともある。最初は緊張したが、今ではそれが、数少ない「楽しみ」の一つになった。
もちろん、今でも仮面は被る。完全にそれを外すことは、おそらく永遠にないだろう。でも、前よりも、その仮面の下にある自分の顔を、意識できるようになった。時々は、その仮面をちょっとだけ持ち上げて、素顔を見せることもできるようになった。
それが、私の進歩だ。誇れるほどのものではないけれど、確かな一歩だ。
月は、今日も昇る。明日も昇る。その繰り返しの中で、私はコードを書き続ける。
プログラムは嘘をつかない。
でも、人は嘘をつく。
仮面を被る。
偽りの笑顔を作る。
それでも——
その嘘の中に、ほんの少しだけ、本当の自分を混ぜることができたなら。
それが、私にとっての、せめてもの救いなのだ。
そして、いつか。本当にいつか、月の裏側にある本当の自分を、誰かに見せることができる日が来るだろうか。
その日が来るまで、私は書き続ける。コードを。そして、この物語を。
それが、道化に選ばれた、たった一つの抗い方だから。
——
夜が明ける。
月が、西の空に沈む。
入れ替わるように、東の空が白み始める。
新しい一日が、始まる。
私はキーボードの前に座り、そっと息を吸い込む。そして、今日最初の一行を、静かに打ち込んだ。