Chapter 4: Sacrifice and Silence
The Scroll of Names
夜明け前の最も濃い闇の中、Kaitoは雪子の家の囲炉裏端に座っていた。火の粉が立ち昇り、天井の黒ずんだ梁に消える。彼の指先は、雪子から託された古い巻物の表面をなぞっていた——五十年前、雪子の祖母が生け贄として選ばれた時の記録である。
「これを読んでください」
雪子の声は低く、囲炉裏の火に照らされた彼女の顔は影と光の狭間で揺れていた。藍染めの半纏の袖口から覗く白い手が、震えながら茶碗を差し出す。
Kaitoは巻物を広げた。手漉きの和紙は黄ばみ、所々に染みが浮いている。墨で書かれた文字は、細く、しかし確かな力強さを持っていた。
——我、此の村の掟により、霧の母に嫁ぐこととなれり。我が身、霧と成りて、永劫の美に捧げられん。されど我に選択の自由は無かりき。我は美しきものを見ず、ただ闇を見る——
「祖母は…」雪子が言葉を継ぐ。「自らの意思ではなかったのです。村の者は皆、知っている。けれど誰も口にしない」
Kaitoは巻物を置き、目を上げた。囲炉裏の煙が天井に渦巻き、部屋の空気を重くしている。
「なぜ村は……この儀式を続けてきた? 何の意味がある?」
雪子は首を振る。「意味? それは村全体の罪です。けれど、誰もそれを認めない。認めれば、自分たちの存在が無意味になるから」
彼女の言葉に、Kaitoは静子の手紙を思い出していた。
——母様。私は見つけました。この村の秘密を。けれど、それと同時に美しさも——
「静子も……」Kaitoは言った。「同じものを見たのか?」
「ええ。彼女は村の掟を破ろうとした。恐らく、真実を暴こうとしたのでしょう。そして……霧の母の美に魅了された」
雪子の目に、強い意志の光が宿る。その光は、囲炉裏の火にも負けぬ強さで、Kaitoの胸に突き刺さった。
儀式の歴史
午後、Kaitoは村の古老の一人、田中という老人を訪ねた。彼の家は村の外れにあり、周囲を鬱蒼とした竹林に囲まれている。家の中は埃と時間の匂いが満ち、壁には古い絵馬や神札が張られていた。
田中は八十を越えているというが、その目は異様に澄んでいた。彼はKaitoを見ると、無言のまま茶を差し出した。
「生け贄の儀式について、お聞きしたいことがあります」
Kaitoの言葉に、田中は一瞬表情を硬くしたが、やがてゆっくりと語り始めた。
「百年以上前——いや、もっと古い。この村ができる前から、儀式はあったと言われている。最初は娘を生きながら祠に捧げていた。恐ろしい儀式だった」
彼の声は枯れているが、言葉の一つ一つが重く響く。
「ある時、村の長たちがその残酷さを悔いた。そして方法を改めた。現代では、村で最も美しい娘を選び、自らの意思で霧の母に嫁ぐ道を選ばせる。選ばれた娘は祠に籠り、三日三晩の祈りの後、その身を霧に還す」
Kaitoは眉をひそめた。「自らの意思で? それは本当ですか?」
田中の目が一瞬揺れた。彼は茶碗を見下ろし、中の茶の表面に映る自分の顔を見つめながら言った。
「……本当かと問われれば、答えに窮する。しかし、村の者たちはそう信じている。いや、信じるしかなかったのだ」
「では、二十年前の生け贄——Sumireという娘は?」
この名前を聞いた瞬間、田中の顔色が変わった。彼の手が微かに震え、茶碗の茶が波立った。
「……Sumireは……特別な娘だった。村で一番美しく、そして一番賢かった。彼女は生け贄に選ばれた時、何も言わなかった。ただ、静かに祠へ向かった」
「その後、彼女はどうなった?」
田中は答えなかった。ただ、首を振るだけだった。
「答えられないのですか? それとも、知らないのですか?」
「……知らない。誰も知らないのだ。Sumireが祠に籠った後、彼女は姿を消した。遺体も、骨も、何も見つからなかった」
「では、生け贄の儀式は成功したのですか?」
田中の目が、初めてKaitoを真正面に見据えた。その目は、年老いた者の諦めと、若者の好奇心への警告を同時に宿していた。
「成功したかどうかは……分からない。しかし、彼女が消えた後、霧は確かに薄れた。しばらくの間、村に平穏が訪れた」
「しばらくの間?」
「……十年後、静子が生け贄に選ばれた。そして彼女は拒否した。それ以降、霧は以前より濃くなり、死者も増えた」
Kaitoは胸に手を当てた。ポケットには、静子の手紙の断片と、霧の祠で拾った護符がある。
「なぜ拒否したのですか?」
「彼女は……真実を知っていたのだろう。Sumireの失踪の真相を。そして、生け贄の儀式の本質を」
田中はそこで言葉を切り、茶碗を両手で包み込むようにして持ち上げた。茶の表面に映る彼の顔は、まるで水中に沈んだようだった。
「しかし、真実を知っても、村の掟に逆らうことはできない。それがこの村の宿命だ」
「宿命……ですか」
Kaitoは立ち上がった。彼の目は、窓の外に広がる濃い霧を見つめていた。
村人の沈黙
その晩、Kaitoは村の中を歩いた。霧は相変わらず濃く、街灯の灯りを不気味に歪めている。各家の窓から漏れる灯りは、まるで深海に沈む家々のようだった。
彼が酒場に入ると、中にいた数人の村人たちが一斉に沈黙した。視線がKaitoに集まり、次に互いに交錯する。彼らは明らかに何かを隠している——それも、長年の習慣としての沈黙。
Kaitoはカウンターに座り、酒を注文した。年配の女将が無言で盃を置く。
「生け贄の儀式について、話を聞かせてくれませんか」
彼の言葉に、店内の空気が凍りついた。誰も動かない。誰も息をしない。ただ、蛍光灯の低い唸りだけが響く。
やがて、一人の男——漁師らしい日焼けした顔が、低い声で言った。
「その話は……やめた方がいい。この村に長くいれば、分かる」
「なぜですか?」
「……霧の母は、全てを見ている。余計なことを口にすれば、罰が下る」
男はそう言って、酒を一気に呷った。その手が微かに震えている。
他の村人たちも、俯いたまま黙っている。彼らの目は、何か強い恐れに囚われているようだった。その恐れは、物理的なものではない——もっと深い、魂に関わる何かだ。
Kaitoは盃を手に取り、酒を口に含んだ。冷たく、苦い味が口の中に広がる。
「では、一つだけ教えてください。Sumireという娘を、覚えている人はいますか?」
その名前を聞いた刹那、店内の空気がさらに重くなった。女将が手に持っていた布巾を落とし、男たちは視線をそらす。
漁師の男が、絞り出すような声で言った。
「……あの娘は……何もかも変えてしまった。それで良かったのか、悪かったのか……分からない」
「どういう意味です?」
「……あの娘が消えた後、村の時間が止まった。いや、止まったんじゃない。誰も前に進めなくなった。儀式も、掟も、全てが空回りし始めた」
男はそれ以上語ろうとせず、立ち上がって酒場を出て行った。残された村人たちは、Kaitoを一瞥すると、それぞれ帰り支度を始めた。
Kaitoは一人酒場に残り、酒を飲み続けた。窓の外では、霧がより一層濃くなっていた。まるで、村を包み込む巨大な胎内のようだ。
雪子の記憶
深夜、Kaitoは雪子の家の前に立っていた。雨戸の隙間から漏れる灯りが、地面にぼんやりとした影を落としている。彼は戸を叩いた。
雪子が顔を出した。その目は少し赤く、泣いた跡がある。
「……入れますか?」
彼女は黙って頷き、中に招き入れた。
囲炉裏にはまだ火が残っている。Kaitoは坐り、雪子も向かいに坐った。彼女の手には、白い布——祠から取ってきたものだ——が握られている。
「村人たちはSumireについて語ろうとしません。いや、語れないのです」
雪子は布を見つめながら、静かに語り始めた。
「Sumireは……私の遠縁です。彼女は私が生まれる前に消えた。けれど、祖母から何度もその話を聞かされました」
「何を聞いたのです?」
「Sumireは、生け贄に選ばれた時、全く動じなかったと言います。むしろ、彼女の方から名乗り出たと言う人もいる。しかし、それは彼女が美しさを愛していたからではなく——」
雪子は言葉を切り、布を握りしめる。
「——彼女は、この村の呪いを終わらせようとしていたのです。生け贄の儀式が、どれほど無意味で、残酷かを知っていた。だからこそ、自ら進んでその役を引き受けた。そこで真実を暴くつもりだった」
「真実とは?」
「この村を覆う霧の正体、そして霧の母の本質。Sumireは、霧の母こそが村の災いの根源ではなく、村人たちの罪の象徴であることを知っていました」
Kaitoは息を呑んだ。雪子の言葉は、静子の手紙と完全に一致していた。
「しかし、Sumireは消えた。何も残さずに」
「ええ。彼女は真実を見つけたのかもしれない。けれど、その代償として命を奪われた」
雪子の目に涙が浮かぶ。彼女は布を胸に押し当て、震える声で言った。
「私は……祖母のようにはなりたくない。生け贄として祠に籠り、自らの意思を奪われるのは嫌です。けれど、掟は絶対だ。逃げることはできない」
Kaitoは彼女の手を握りたかったが、やめた。代わりに、静子の手紙の断片を取り出して差し出した。
「これを読んでください。静子が母に宛てた手紙です」
雪子は震える手で受け取り、読み始めた。
その顔が、徐々に青ざめていく。
「……この手紙は……静子が何を見つけたのか、教えている……」
「何を?」
雪子は顔を上げた。その目は、確かな決意に満ちていた。
「Sumireが消えた理由。そして、生け贄の儀式がなぜ三年周期で起こるか——」
三年周期の謎
翌朝、Kaitoと雪子は村の記録室にいた。古びた木造建築で、壁には埃をかぶった巻物や古文書が積まれている。唯一の窓から差し込む光は、霧によってぼんやりと歪められ、室内に不気味な影を落としている。
雪子は棚の一番奥から、革紐で縛られた一束の書類を取り出した。
「これが、生け贄の記録です。百年分、全て」
Kaitoは書類を受け取り、一枚一枚めくり始めた。日付と名前、そして簡単な記述。どのページも、同じ形式で書かれている。
明治四十二年 秋——村で最も美しき娘、杉本カヨ、霧の母に嫁ぐ。以降三年、平穏を得る。
大正五年 春——同、鈴木トメ、霧の母に嫁ぐ。以降三年、平穏を得る。
昭和二年 冬——同、山田ハル、霧の母に嫁ぐ。以降三年、平穏を得る。
Kaitoは指で数字を追いながら、眉をひそめた。
「すべて三年ごとだ。正確に、三年ごとに記録がある」
「ええ」雪子が言う。「百年の間、一度もずれたことはない。三年ごとに、必ず一人の女性が消える」
「しかし、生け贄の儀式は十年に一度と言われている。二十年前にSumire、十年前に別の娘、そして今年、静子が…」
「その矛盾が、村の秘密です」
雪子は別の巻物を広げた。それは、五十年前の記録だった。
昭和四十七年 秋——村で最も美しき娘、村井ユキ、霧の母に嫁ぐ。以降三年、平穏を得る。
「ユキは私の祖母です。五十年前に生け贄に選ばれました。けれど、その三年後にも、別の娘が生け贄として記録されている」
Kaitoはページをめくり、確かに三年ごとに名前が続いているのを確認した。
「では、実際の儀式の間隔は三年ということか?」
「いいえ。表面上は十年に一度、生け贄の儀式を行うことになっている。しかし、村の者たちは密かに『三年の周期』で生け贄を捧げている。それを口にすることは禁じられているが」
雪子の声は、抑えきれない怒りを含んでいた。
「つまり、村人たちは十年に一度の儀式は見せかけで、本当は三年ごとに娘を捧げている。Sumireはそのことを知り、真実を暴こうとした」
Kaitoの頭の中で、パズルのピースが徐々に嵌まっていく。
「そして、静子も同じことを知った。だから拒否した」
「そうです。しかし、拒否した娘は……命を奪われる。儀式は強制される。村の掟は絶対だから」
老女の影
その夜、Kaitoと雪子は再び霧の祠へ向かった。月は雲に隠れ、闇は一層深い。提灯の灯りだけが、細い道をかすかに照らしている。
両側の杉の木には、白い布が無数に結ばれている。風のない夜でも、それらは微かに揺れ、まるで生き物のように蠢いている。
「ここから先は危険です」
雪子が言った。彼女の声は緊張で震えている。
「分かっている。だが、真実を見つけなければ」
二人は、苔むした石段を登り始めた。石段の両側には石灯籠が立ち、ろうそくの灯りが揺れる。その灯りは、霧の中でゆらゆらと歪み、現実と非現実の境界を曖昧にする。
「聞こえますか?」
雪子が立ち止まり、耳を澄ませた。
Kaitoも立ち止まり、耳を傾ける。最初は何も聞こえなかったが、次第に低い囁きのような音が聞こえてくる。それは風の音ではなく、確かに人間の声だ。幾重にも重なり合い、悲鳴、嘆き、祈り——様々な感情が混ざり合っている。
「彼女たちの声です。生け贄となった娘たちの魂が、霧の中に閉じ込められている」
その時、前方の闇が歪み、一つの影が現れた。
老女だった。白い着物に、藍染めの帯を締めている。その顔は、深い皺に覆われているが、目だけは異常なまでに若々しい光を宿している。
「……また来たのか、お前たち」
老女の声は、風に乗って響く。それは、雪子の祖母の声だった。
「祖母様……」
雪子が叫んだ。しかし、老女は手を上げて彼女を制止する。
「近づくな。私はもう、この霧の一部だ。生者の領域には戻れない」
老女の周囲の霧が渦巻き、彼女の姿を包み込もうとする。しかし、彼女はそれを振り払うようにして、二人を見据えた。
「あなたは……真実を求めて来たのか?」
Kaitoに問いかける。
「はい。この村の秘密を、そしてSumireと静子の真実を知りたい」
老女は深く息を吐いた。その息が白い霧となって、空中に漂う。
「知りたいという欲求は……美しい。しかし、危険でもある。真実を知った者は、その代償として自らの魂を捧げねばならぬ」
「覚悟はできています」
老女はしばらく沈黙した。その目は、Kaitoの魂の奥底を見透かすように、じっと彼を見つめていた。
やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……Sumireは、私のような存在になることを拒んだ。彼女は最後まで、人間として生きることを選んだ。だからこそ、彼女の魂は自由だ」
「自由とは?」
「この霧に囚われず、永遠の輪廻の中を旅することを許された。それは、生け贄となった娘たちにとって、最大の祝福だ」
老女の声には、どこか羨望の色が混じっていた。
「しかし、静子は違った。彼女は自らの意志で霧の母に捧げられた。いや、捧げられたのではなく、自分から捧げたのだ。美しさに魅了されて」
Kaitoの胸が締め付けられる。彼自身もまた、あの石柱から現れた美しい女性の顔に魅了されていた。その美しさは、人間の理性を超越した、神聖でありながらも恐ろしいものだった。
「あなたもまた、その美に魅了されている。それが怖い」
老女はKaitoに近づき、指で彼の頬を撫でた。その指は冷たく、まるで氷のようだ。
「真実を見つけるということは、自らの弱さと向き合うことだ。あなたは、静子と同じ道を歩もうとしている。しかし、彼女と異なり、あなたはまだ引き返せる」
Kaitoは首を振った。
「引き返せません。私は、この村の真実を、そして霧の母の正体を確かめなければならない」
老女は微笑んだ。その微笑みは、慈愛と哀しみが混ざり合った、何とも言えない表情だった。
「ならば、俺に道を示してほしい。Sumireが消えた場所、そして静子が真実を見つけた場所へ」
老女はしばらく沈黙した後、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。お前の覚悟、確かに受け取った」
彼女は振り返り、霧の中を歩き始める。白い着物の裾が霧に溶け込み、彼女の姿は幻のように揺らめく。
「ついて来い。ただし、後悔するなよ」
祭壇の秘密
老女に導かれ、Kaitoと雪子は祠の奥へと進んだ。そこは彼らが以前見た祠とは別の空間——まるで異次元のように感じられる場所だった。周囲は濃い霧に覆われ、足元さえも定かでない。
「ここが、最初の祭壇だ」
老女が指さした先には、白い石でできた祭壇があった。その表面には、無数の文字が刻まれている。
「これは……」
Kaitoが近づくと、文字が光を放ち始めた。それは生きたように、石の表面を這い回る。
「生け贄の名前だ。百年の間、ここに捧げられた全ての娘たちの名が刻まれている」
雪子が震える声で言った。
「その数は……」
「三十六人。三年ごとに一人。百年で三十六人」
老女の声には、何の感情も込められていなかった。それは、あまりにも長い時間の中で、感情が枯れ果てた証だった。
「しかし、Sumireの名前はない」
Kaitoが指さした場所には、確かに空白があった。他の名前のように刻まれておらず、ただ何もない平らな石面が広がっている。
「Sumireは、自らの意思で生け贄を拒否したわけではない。しかし、彼女は真実を知り、名前を刻まれることを拒んだのだ」
老女は祭壇の後ろに回り、ある場所を指さした。
「ここに、彼女の遺したものがある」
Kaitoが確認すると、石の隙間に小さな箱が挟まっていた。彼は慎重にそれを取り出した。箱は黒漆塗りで、表面には細かい金の蒔絵が施されている。
「開けてみろ」
Kaitoは蓋を開けた。中には、一枚の和紙と、一房の黒髪が入っていた。
和紙には、細かい字でこう書かれていた。
——我はこの村の呪いに気づいた。霧の母は、我々の罪の具現である。生け贄を捧げることは、罪を犯し続けることである。されど、真実を知る者には、逃げ場はない。ただ沈黙だけが許される——
「Sumireは、この真実を村人たちに伝えようとした。しかし、誰も耳を貸さなかった。いや、耳を貸すことができなかった。彼らは自分たちの罪を認めるのが怖かったのだ」
老女の声に、初めて感情が込められた。それは怒りであり、悲しみだった。
「だから、彼女は自ら祠に籠り、その身を消した。遺体も、骨も残さずに。ただ、この手紙と髪だけを遺して」
Kaitoは手紙を丁寧に畳み、胸のポケットにしまった。そして、髪の一房を見つめた。それは、二十年前の時間を止めたまま、美しい黒色を保っている。
「静子も、同じ真実を知ったのですか?」
「おそらくな。彼女はSumireの手紙を見つけたのだろう。そして、自分も同じ道を選ぼうとした。しかし、彼女は拒否した。真実を暴くために、生け贄となることを拒んだのだ」
「しかし、彼女は殺された」
「そうだ。村の者たちは、彼女を排除した。彼女が真実を口にする前に」
老女の目に、一筋の涙が浮かんだ。それは、彼女が五十年の間、胸に秘めてきた悲しみの結晶だった。
「私は、五十年前に生け贄として選ばれた。夫も子もいたのに、無理やり連れて行かれた。村の掟に逆らえず、ただ従うしかなかった」
「それでも、あなたは霧と共に生きている」
「それが呪いだ。生け贄となった娘たちは、死んでも自由になれない。霧の一部となり、永遠にこの場所に縛られる。Sumireだけは違った。彼女だけが、この呪いから逃れた唯一の存在だ」
老女は祭壇にもう一度触れた。その指が石の表面をなぞると、文字が一瞬光った。
「さあ、これで真実は全てだ。お前はどうする? この真実を公にするか? それとも、村の沈黙を守るか?」
Kaitoは答えなかった。彼の心は、複雑な感情で満たされていた。真実を知ったことで、彼は自分がすべきことを見つけた。しかし、それが正しいことなのか、それとも村全体を破滅に導くことなのか、判断がつかない。
「あなたは、どう思いますか?」
彼は老女に問いかけた。
老女は微笑み、答えた。
「私は五十年間、この霧の中で考え続けてきた。真実を隠すことは罪だが、真実を暴くことで生まれる悲しみもある。どちらを選ぶべきか、私には分からない。しかし、一つだけ分かっている——お前の心が、既に答えを出している」
Kaitoは目を閉じた。胸の中で、静子の声が聞こえる。
——私を見つけて——
彼は目を開け、老女を見つめた。
「私は、真実を暴くことを選ぶ。静子の無念を晴らすために。そして、Sumireの魂を解放するために」
老女は深く頷いた。
「その覚悟、確かに受け取った。ならば、俺も力を貸そう。しかし、一つだけ忠告を——霧の母に近づくな。彼女の美は、お前を破滅させる」
そう言って、老女は霧の中に消えた。
白い着物の裾が、まるで蝶の羽のようにひらりと舞い、そして見えなくなった。
沈黙の重み
祠を後にしようとした時、Kaitoは突然、背後から声を聞いた。
——お兄さん——
それは、静子の声だった。確かに、彼女の声だ。
Kaitoは振り返ったが、誰もいない。ただ、霧の中に白い影が一瞬揺らめいただけだ。
「静子?」
彼は声を上げた。しかし、返事はない。
代わりに、彼の耳に囁きが届いた。
——真実を、伝えて——
その囁きは、風のように消えた。
雪子が心配そうにKaitoを見つめる。
「大丈夫ですか?」
「……ああ。静子が…俺に何かを伝えようとしている」
Kaitoは胸のポケットの護符を握りしめた。骨の護符は、まだ冷たい。
二人は、霧の中を慎重に下り始めた。石段の両側の石灯籠の灯りは、いつの間にか消えていた。代わりに、青白い燐光が霧の中で漂っている。
「もうすぐ夜明けです」
雪子が言った。
確かに、空の東の端が少し明るくなり始めている。しかし、その光は霧によって遮られ、村に届かない。
「夜明けになっても、この霧は消えないのか?」
「ええ。暁の刻に最も薄くなるけれど、決して消えることはない。それがこの村の運命だから」
Kaitoは村の方向を見た。霧の向こうに、ぼんやりと家々の影が見える。しかし、その影はまるで蜃気楼のように歪み、現実感がない。
「この村は……呪われている。いや、呪いを自分たちで作り出しているのかもしれない」
彼の言葉に、雪子は黙って頷いた。
村に戻ると、夜明け前の静寂が辺りを包んでいた。道端の家々はまだ雨戸を閉ざし、誰も起きていない。ただ、一匹の黒い猫が、路地の陰から二人をじっと見つめている。
Kaitoは雪子の家の前で立ち止まった。
「明日、もう一度祠へ行く。今度は、Sumireの手紙の意味を確かめに」
「危険です」
「分かっている。しかし、このままでは何も変わらない。私が真実を暴かなければ、静子の死は無駄になる」
雪子はしばらく考え込んだ後、決心したように言った。
「ならば、私も一緒に行きます。私も、祖母の遺志を継ぎたい」
Kaitoは彼女の目を見つめた。その目は、強い決意に輝いている。
「いいだろう。しかし、もし危険を感じたら、すぐに逃げろ。約束してくれ」
「約束します」
二人は固く握手を交わした。
その瞬間、霧が再び濃くなり、周囲の景色を包み込んだ。遠くから、低い唸りにも似た音が聞こえる。それは、霧の母の目覚めの合図かもしれなかった。
黎明の決意
家に戻ったKaitoは、机の上にSumireの手紙と静子の手紙の断片を並べた。二つの手紙の筆跡は異なるが、書かれている内容は驚くほど似ている。
——霧の母は、我々の罪の具現である—— (Sumire)
——この村の美しさは、死によって支えられている—— (静子)
Kaitoは両方の手紙を手に取り、じっくりと読み比べた。二つの手紙が指し示すもの——それは、村の存続そのものが生け贄によって成り立っているという真実だった。
「村人たちは知っている。しかし、認めたくない。自分たちの生活が、若い娘たちの犠牲の上に成り立っていることを」
彼は護符を机の上に置いた。骨でできたその護符は、静子やSumireたち生け贄が身に着けていたものだ。表面に刻まれた『美しきものに、命を捧げよ』という文字が、部屋の灯りに照らされて浮かび上がる。
彼はその文字を指でなぞった。その瞬間、彼の脳裏にあの美しい女性の顔が浮かんだ。霧の母の、完璧な美。それは、人間の理性を溶かす危険な美だった。
「しかし、俺はもう戻れない」
Kaitoは自分自身に言い聞かせるように呟いた。
彼は机の引き出しから一冊のノートを取り出し、静子とSumireの手紙をコピーした。原本は安全な場所に保管し、コピーを村の役所に提出するつもりだった。
「これで、真実は記録される」
彼はノートを閉じ、窓の外を見た。霧は少し薄くなっているが、それでも村全体を覆い尽くしている。その霧の向こうに、霧の祠の影がぼんやりと浮かんでいる。
「明日、全てを終わらせる」
Kaitoは決意を新たに、床に横たわった。しかし、眠りは遠く、彼の意識は霧の中を漂い続けた。
窓の外では、夜明け前の薄明かりの中で、白い布が風もなく揺れていた。それは、まるで生け贄の娘たちの魂が、まだこの村に縛られていることの証のように見えた。
そして、遠くの祠から、微かに聞こえる音——それは、祈りか、それとも嘆きか。Kaitoはその音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
夜が明ける。新たな一日が始まる。しかし、この村にとって、真実はまだ霧の中に隠されたままだった。